「今年から真剣に稲作を始めたよ。だって子どもが食べたがるんだ。たらふく食べるには育てるしかない。親戚にも植えるように言ったよ」と言うのは、滞在家庭の父さん。彼は村のリーダーのような存在でもある。
実は20年ほど前に日本のJICAの技術協力により、陸稲を育てるプロジェクトがあった。その時は、一時は栽培が広がり一定の成果があったものの、イモやサゴヤシに比べて手間がかかることもあり、人々はイモ栽培に戻っていったという。20年経って再び稲作に本腰をいれるのは、米への欲求がそれだけ上がってきたということなのか。
米を食べる「もう1つの方法」
そして米を食べるもう1つの方法は、私たちのような現金を持つ人間に買わせること。「子どもたちが米を食べたがっている」とか言われて、平積みになっている1キロ袋を買おうとしたら「1キロじゃ足りないよ5キロ」なんて言われる。
米以外にも、滞在家庭の母さんに「夕飯にサバ缶とインスタント麺買いたいから15キナちょうだい」なんて言われることがある。この地では当たり前のやりとりなのだが、最後まで慣れなかった。
彼女は私たちを泊めてくれているし、世話してくれているし、彼女の持っているもので貢献してくれている。それに対する交換の対価として、現金を持っている人に現金の貢献を求めるのは当たり前と言えば当たり前。交換と貢献で成り立つ社会だから、「手伝って」の感覚で「お金ちょうだい」となるのは、頭ではわかる気がする。だけどわからない。
その日の夕飯は、サバ缶とインスタント麺を煮たのを、山盛りごはんにのせたものだった。やわやわになったインスタント麺にサバ缶の油感がからみつき、味付けはインスタント麺に付属の小袋で、そりゃうまいよねという味になる。
最初は「ここまで来てインスタント麺とご飯か……」とそそられなかったのだが、食べてみたらなんとも馴染みのある人工的なうまさで、山盛りのご飯をぺろりと平らげてしまった。
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