安易な国粋主義を戒めた「日本主義」哲学者の気概 九鬼周造の生き方に見る「媚態」と「やせ我慢」

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古川:たとえば、講演の結論部分では、はっきりとこう述べています。

我々は今や東洋的な日本文化が西洋の文化と全面的に接触しているという時機に立たされたのである。その時に当って一部のものは西洋の文化を頭から崇拝してその影響に全く身を委ねてしまっている。日本的性格は失われようとしている。また他のものは日本文化を何等か絶対的なものと考えてその絶対的なものを単に固守するより以外のことを知らない。我々はそのいずれにも倣ってはならぬ。一方にあって我々は飽くまでも日本文化の特殊性を自覚して日本主義の立場に立つべきであると共に、他方にあっては広く世界の文化を見渡してその善きものを容れるだけの雅量を示さなければならない
我々は二つの意味で深く自重するところがなくてはならない。第一に日本人として国民的に個別性に於て自重するところがなくてはならない。第二にその日本人とは恣(ほしいまま)な得手勝手な日本人であってはならない。世界的理念を体現するところの日本人でなければならない。日本人としての自重は世界的理念に根ざすという事実から自重を汲みとるものでなければならない。将来の日本文化を指導する原理は一言で云えば日本主義的世界主義または世界主義的日本主義というような一見逆説的なものでなければならぬと考えるのである。

どこが「閉鎖的な文化特殊主義」なんでしょうか。どう読んだって、むしろそれを戒めているとしか読めません。

そして、実はこれこそ、自文化の独自性・特殊性を自覚しつつ、他文化との相互了解という「不可能な可能性」を「無窮」(=永久)に追求するという、「いき」の態度そのものを表現してもいるわけです。以上、ひとまず従来の九鬼に対する誤解と、それへの私の反論について説明させていただきました。

なぜ九鬼は「いき」にこだわったのか

中野:ありがとうございます。私は九鬼について詳しく研究したわけではないので、いい加減なことを言ってしまうかもしれませんが、日本の文化的伝統と言ったら、「わび」とか「さび」を主題にしそうですが、なぜ九鬼は「いき」にこだわったのでしょうか? どこかの記事で、「いき」というのは、日本語で生きるの「生き」と関係しているのだと読んだことはありますが。

古川:そうですね。生きるの「生き」と、呼吸の「息」。あとは意気地とか、意気に感じるの「意気」。行ったり来たりの「行き」もありますね。これらは全部、語源が同じである。だから、「いき」とは「生き方」であり、人生の「行き方」であると九鬼は言っています。

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