古川:ただし、九鬼が言いたいことは、翻訳は不可能だから、翻訳なんかしたって意味がないということではありません。逆に、その不可能性を明らかに自覚しつつ、しかしできるかぎりその可能性を追求しなければならないと彼は言います。後ほど論じたいと思いますが、実はこの態度そのものが「いき」でもあります。他者と完全には一体になれないことを自覚しつつ、しかしできるかぎりの共通了解をめざしていく、ということです。
安易な「日本主義」「国粋主義」への戒め
続いて、2つ目の「日本的性格について」という講演が国粋主義だという批判について。
まず押さえておかないといけないのは、この講演は第三高等学校で行われた「日本文化講義」だということです。日本文化講義とは、当時の文部省思想局が「思想善導」を目的として全国の直轄学校に命じた、いわば官製講義です。テーマや内容にも、当局がかなり介入しますし、当然、講義は監視されます。講義の内容次第では講師が教壇を追われる可能性もありました。ですから、そもそもこの講演が「当時の平凡な文化的ナショナリズムに大幅に屈服しているように見える」のは当たり前なんです。そういう講演をしなければ大変なスキャンダルになってしまうわけですから。
しかも、これはまだ九鬼研究では触れられていない点ですが、実は九鬼は当初、この講演を断ろうとしていました。甲南大学の九鬼周造文庫に保管されている未公開の書簡のなかに、九鬼が文部省思想局の役人に宛てた手紙の下書きが残っています。そこに「御趣旨に十分に添い得るや否や多少疑問に存ぜられ候 これらの点よりしても出来得ることならば御辞退いたしたく候」とあります。
ちなみに、私は一時期、これらの未公開書簡を整理する仕事を依頼されていたので、これを発見できたのですが、その後、何やらよくわからない学内のトラブルに巻き込まれて外されてしまったので(笑)、今は見ることができません。研究の発展のために、甲南大学には1日も早く書簡集の整理・公刊をお願いしたいです。
そういうわけで、この講演はそのあたりの事情も考慮しながら、慎重に読まなければなりません。しかし、とはいえ、ふつうに読んでも、この講演はいっけん国粋主義的な言説を振りまいているように見せかけつつも、実はその本旨は、むしろ安易な「日本主義」や「国粋主義」を戒めるところにあることは明らかです。