古川:1つ目は、当初は肯定されていた「いき」の他文化との通約可能性が、帰国後に否定されたことです。『「いき」の構造』には、留学中に書かれた草稿(1928年)、帰国直後の改稿(1929年)、そして決定稿(1930年)がありますが、改稿までは、「いき」は日本の伝統だが、西洋人にも理解でき、西洋にも「いき」と同じものがあると九鬼は書いていました。
しかし、最終的な決定稿では、その種の記述が全面的に削除されて、「いき」はあくまでも日本独自の伝統であり、たとえ西洋にそれと似たものがあるとしても、それは「いき」ではないとされました。このことが、「閉鎖的な文化特殊主義」や「文化的ナショナリズム」であると批判されているわけです。
2つ目は、1930年代後半のいくつかの論考、特に「日本文化」や「日本精神」を主題にして論じた「日本的性格について」という講演の内容が国粋主義的だという批判です。九鬼の偶然性の哲学はすばらしいと絶賛していた坂部先生も、ここでは「真に開かれた文化多元主義の思考は、急速に失われ、むしろ閉鎖的な文化特殊主義ないし文化的ナショナリズムへの傾きを強めていった」とか「当時の平凡な文化的ナショナリズムに大幅に屈服しているように見える」と批判しています。
不可能性を踏まえた翻訳への挑戦
古川:これらの批判に対して、それはおかしいと論じたのが私の論文です。
まず1つ目の、九鬼が「いき」の文化間での通約可能性を否定したという点について。これは、あくまでも九鬼の哲学的立場の展開に基づくものであって、ナショナリズムうんぬんは関係ありません。小浜善信先生が、九鬼は中世哲学で言う「実在論者」ではなく「唯名論者」、つまり「個物主義者」であることを強調しておられますが、「いき」の草稿から決定稿への展開にも、この立場をより明確にしていった過程を見て取ることができます。
要するに、「普遍者」ではなく「個物」を、その具体的な姿でありのままに把握するということを、九鬼の哲学は目指していたわけです。だとすれば、九鬼が「いき」をあくまでも個別的なものとして捉え、たとえ西洋に似たものがあっても、それは「いき」とは異なると考えるべきだと主張するのは当然のことです。逆に、「いき」が文化間で通約可能だと考えるのは、普遍主義の立場です。「いき」のイデアがまず存在して、それが多様な文化において多様な現れ方をしていると考えるのが普遍主義、あるいは実在論の立場ですが、九鬼はこれを否定しているわけです。
別の言い方をすると、これは言語の翻訳不可能性の問題でもあります。九鬼は、「いき」という日本語は日本人の性情や歴史全体を反映した言葉であり、他国語に完全に翻訳することはできないと言っています。ついでに言うと、この点についての九鬼とハイデガーとの対話が、ハイデガーの『言葉についての対話』に収録されています。ハイデガーの言い方だと、これが「言葉は存在の住み処」ということになります。