古川:そのとおりです。当時の日本文化講義で、こんなふうに「『日本スゴイ』とか言ってんじゃねーよ」などと言ってのけるのは、並大抵のことではありません。この講演を読んで感じるのは、むしろ体制の同一化の圧力に反発する九鬼の「意気地」ですよ。まさに「やせ我慢」です。
すべてを片仮名にする「意気地」のなさ
施:今の「媚態」「諦め」「意気地」のお話は、国民保守主義をめぐる前回の研究会のテーマであった「グローバル化」と「国際化」が区別されずに使われている問題にも通ずる話だと思います。
近年、この2つの言葉がほぼ同じ意味として使われてしまっている一つの原因に、言ってみれば、翻訳の際に同一化を拒む「意気地」が失われてしまったからではないかと思うんです。
昔の明治のインテリというのは、欧米の理念を国内に輸入するときに、すべて漢語にしていったわけですよね。彼らは欧米の文化を取り入れる際に、自分たちの伝統を意識し、それにうまく位置づけていた。
しかし、近年ではすべて片仮名で取り入れるようになってしまいました。さらにひどいのは、片仮名だけでなく、アルファベットの頭文字だけで何かを表現しようとするようになり、何が何だかわからなくなってきています。
例えば、「グローバル化」という言葉についてですが、中国では「全球化」と訳されます。一方、「国際化」は中国でも「国際化」として通じます。もし日本でもインテリが意味を考えて、「グローバル化」を「全球化」と訳していたら、「グローバル化」と「国際化」の区別がもう少しつけられたのではないでしょうか。
そうすれば、国境線をなるべく取り払うという意味でのグローバル化はイヤだけど、互いの違いを認め合い、尊重しながらも積極的に交流する国際化は目指すべきではないか、というような建設的な議論ができたのではないかと考えています。そのような意味で、最近のインテリたちは少し怠けているのではないかという印象を持っています。
古川:九鬼も「外来語所感」というエッセイの中で、翻訳の努力をせずに何でもかんでも片仮名で言って、しかもそれをオシャレとかカッコいいとかと思っている風潮に対して、激しい嫌悪を表明しています。すでに当時からそういう風潮があったんですね。
この点は、九鬼が「日本的性格について」の中で論じている「日本主義」と「世界主義」との関係をどう考えるかという問題にもなってきますので、第2回以降で引き続きそこを見ていきたいと思います。
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