古川:先ほど見たように、九鬼は一方では、西洋の優れた思想を積極的に学んで受け入れるべきだと言い、しかし他方では、日本には他の文化には翻訳できない日本独自の文化・伝統があり、それを大事にすべきだと言います。これはまさに「いき」なあり方を言っているわけです。
九鬼自身、8年もヨーロッパに留学して、ドイツ語やフランス語はもちろん、ギリシア語、ラテン語も完璧にできました。九鬼というと、とかくハイデガーの影響など、現代哲学との関係が取り沙汰されますが、実は彼が最も重視したのは、古代・中世以来の西洋哲学の伝統であって、その思考様式や学術的な作法に徹底的に従っています。つまり、彼ほど「西洋」というものに自己を同一化しようとした哲学者はいないと言ってもいい。
ところが、その彼が、他方で「いき」は日本独自の美意識であり、西洋の言語には絶対に翻訳できないと言う。これは要するに、意地を張っているわけですよ。
「いい気」に見せかけて「いき」を説く
佐藤:近代の日本は、西洋に「媚態」を示さなければ生き残れないという大前提から出発しました。なに、事情は今も変わりません。西洋に媚びることを「文明開化」ではなく、「グローバル化」と呼ぶようになっただけの話です。
とはいえ、媚びる一方ではアイデンティティが解体されてしまう。九鬼周造の母ではありませんが、正気を保てず、精神を病んでしまうかもしれない。だとしても、媚びずにやってゆくのは不可能。
媚びてなお、アイデンティティを維持するにはどうすればいいのか。このジレンマに立ち向かう方法論として、九鬼は「いき」を構想したのだと思います。これは安易な国粋主義とは対極に位置するもの。そちらは、「いき」ならぬ「いい気(=自己陶酔)」というやつですよ。
中野:それで言うと、「日本文化講義」の話になりますが、当時の文部省には思想局があって、国体思想に反することを言うと教壇から追われるという恐ろしい時代だったそうですね。そして古川さんのおっしゃるように、九鬼は本当は引き受けたくなかった。だけど、まさに「いき」の諦念で引き受けた。それで、「当時の平凡な文化的ナショナリズムに大幅に屈服している」と言われるように媚態を示しつつも、日本人の偏狭な日本主義じゃダメなんだと言って、意気を見せたんですね。
佐藤:「いい気になるなよ、いきでなけりゃダメだぞ」と、さりげなく説いたわけです。あまりに「いき」なやり口なので、「九鬼は『いい気』(=安易な国粋主義)になっている!」と錯覚する人が出てしまうのもよくわかる。ただし「いい気」にかこつけて「いき」を説くとは、ほとんどやせ我慢に近い姿勢なのも否定できません。