あれは、実は、自分が指さしたものを見てほしいというよりも、「それを指さしている自分」を見てほしいのです。それに気づいている自分に気づいてほしい。
協力関係をつくらなければ生き残ることができなかった人類という種は、周りから自分の存在を否定されれば、それは社会的な死を意味します。ですので、人間のDNAには「自分の存在の承認を求める」ということが書き込まれているのではないかと思うぐらいです。
心理学では、「Unconditional Love(無条件の愛)」を、おじいさんやおばあさんから受けた子供は、とても精神的に安定した人に育つと言われます。
親は、どうしてもしつけという観点から、何かできたらほめ、できなかったり間違ったりしたら叱る、ということをやりがちです。でも、祖父母は、そうした育成責任から少し解放されていますから、とにかく子供を無条件に受け入れる傾向が強い。
そうすると子供は、「結果承認」の前に、「存在承認のシャワー」を継続的に受けることになります。結果、自分の価値というものを、過剰に周りの判断に依存しなくてよくなる。
自分の存在は、「そもそも肯定されている」というのがデフォルトですから。
言い方を変えれば、周りに自分を認めてもらうために行動を起こしたり、発言をしたりする必要がなくなるわけです。
承認されるために「ゲーム」をする人もいる
自分が手にしたいものを手にするために、直接的にそれを求めるのではなく、結果的にそれが手に入るように「仕組む」こと。それをここでは「ゲーム」と呼んでみます。
自分やチームが目標に到達するために、行動を起こしたり、ミーティングで発言をしたりすること自体は、「ゲーム」ではありません。
しかし、そこに「お前はよくやった」となんとか周りに言わせたいという気持ちがにじみ出ていると、ゲームっぽさが漂います。
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