日本の半導体の凋落招いた「日米協定」の無理難題 1986年の締結前は"日の丸半導体"が世界を席巻
このような日米半導体協定の発効が原因のすべてではないにせよ、第2次協定締結(1991年)の翌1992年には、半導体市場において1989年には8位にすぎなかったインテルが一気にNECを抜いて世界1位になり、DRAM(メモリ)の分野ではサムスンが日本メーカーを抑えて1位を占めるに至りました。
当時の"トラウマ"がその後の政策にも影響を
このような不平等な半導体協定を呑まざるを得なかった日本の半導体業界が受けた直接的ダメージはもちろん、当時の政府の対応や結果として残されたトラウマが、その後の半導体業界と政策に大きな負の影響を残したのは間違いないでしょう。
その後も半導体に関するいくつかの官民合同の国家プロジェクト、ASET(技術研究組合超先端電子技術開発機構)、Selete(半導体先端テクノロジーズ、通称セリート)、ASPLA(先端SoC基盤技術開発)などが起こされましたが、結果としてどれも日本の半導体産業全体の復権に寄与したとは思えません。
その大きな理由は、まず達成すべき明確なテーマの設定、各社からの派遣メンバー(お付き合い意識を超えて自社のエース級を出したか?)、予算がテーマ別に細切れであまりにも少額、国の政治的介入、経過と結果に対する評価基準の曖昧さ・甘さ等々によると考えます。
いっぽう、同じ時期の韓国、台湾、そして近年では中国がそれぞれの政府の手厚い庇護のもと、半導体産業を大きく伸ばしたのとは対照的です。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら