日本の半導体の凋落招いた「日米協定」の無理難題 1986年の締結前は"日の丸半導体"が世界を席巻

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最近のニュースでも報じられているように、シリコンウエハーメーカーのSUMCO(日本)に国が750億円の支援を行なうとか、レジストメーカーのJSR(日本)を官民ファンドの産業革新投資機構(JIC)が1兆円で買い上げるなど、材料メーカーへのテコ入れが国レベルでもようやく始まっています。

1970年代の後半から、日本企業による半導体の対米輸出が増加していました。1981年には世界半導体市場シェアの50%を超え、64キロビットの先端DRAM(メモリ)に至っては、実に70%超を日本メーカーが占めるに至っていました。

アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルの著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』にも示されているように、戦後日本の急速な経済復興の波の中で、日本の半導体は「日の丸半導体」と持ち上げられ、半導体産業界全体が繁栄を謳歌していた(浮かれていた)と思われます。

つまずきの第一歩は「日米半導体協定」だった

しかし、半導体は各種兵器の高性能化などにも利用されるため、アメリカは「国防上の懸念」をある意味で錦の御旗とし、アメリカ半導体工業会(SIA)は1985年にアメリカ通商代表部(USTR)に日本の半導体メーカーを「ダンピング違反」として提訴しました。

この提訴を受け、半導体に関する日米貿易摩擦を解決するという名目のもと、「日米半導体協定」が締結されました。この協定は1986年〜1991年の第1次、1991年〜1996年の第2次に分けられます。

第1次協定の主な内容は、
・日本の半導体市場の海外メーカーへの開放
 ・日本の半導体メーカーによるダンピングの防止

というものでした。前者に関しては第2次協定で明文化された、「日本の半導体市場における外国製半導体のシェアを20%以上にすること」との密約があったとされています。

しかし、1989年の半導体世界シェアのメーカー別の順位を見てもわかるように、NEC、東芝、日立、モトローラ、富士通、TIと、依然として日本メーカーが上位を占めていたため、1991年に締結された第2次協定では、上記20%以上との数値目標が、第1次協定からのダンピング防止条項に加えて明記されるに至りました。

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