その後、日記の頻度は極端に落ちる。議会に復帰する思いや日々の体調の変化もほとんど記されず、「直子帰朝す」(4月10日)、「雄彦帰朝」(5月13日)など、親族の動静をまれに短く記載する程度だった。空白のページが続いたあと、6月28日に最後の筆が残されている。
<退院、久世山の自宅に入る>(昭和6年6月28日と29日のページより)
日記はここで終わっている。一方で『随感録』は、入院中でも体調が良いときに口述筆記で継続していた。憲政資料室にある『随感随録』には収録されていないが、自宅に戻った後も「病院生活百五十日」などのまとまった文章を残している。
後日、四女を中心に編まれた『随感録』には、最終章として「無題」の短文が収録されている。その冒頭が最晩年の雄幸の心境を端的に表していると思えた。
<余はすでにひとたび死線を超えた。このうえの死生はただ天命のままである。以前のように生に対する執着もなければ、死に対する恐怖も淡い。もし死ぬるものならば万事休するまでである。>(池井優ら編『濱口雄幸 日記・随感録』より)
四女・富士子さんの回想によると、自宅療養中もゆっくりであるが快方に向かっており、社会で活動する意欲は失われていなかった様子だ。しかし、8月に急変。月を越えることなく、61歳で息を引き取った。
来るはずだった未来に向けた書き込み
「日記の世界」では、濱口の盟友であり、GHQ占領下に内閣総理大臣を務めた幣原喜重郎のページもあり、そこから晩年に使っていた衆議院手帖の画像も辿れる。こちらも著作権保護期間満了のものだ。
幣原は1951年3月10日、衆議院議長在任中に心筋梗塞により78歳で急死している。予想しようのない死だった。それゆえに、手帖には4月8日まで予定が書き込まれていた。
幣原は先々の予定を書き込むために手帖を使っており、過去を振り返った雑感などはほとんど残していない。いわば未来のための筆だ。過去の出来事や思索を書き留める日記とは、向いている時間の軸が180度異なる。
ただ、日記で過去を振り返るときも、今後に生かす意識が少なからず含まれているもので、そういう意味では未来のほうも向いているといえるかもしれない。いずれにしろ、濱口の日記と随筆、幣原の手帖がともに書き手の死線を越えて、令和の現代まで誰でも読める状態で置かれていることが興味深いし、ありがたい。
池井優・波多野勝・黒沢文貴編『濱口雄幸 日記・随感録』(みすず書房)
田中祐介編『無数のひとりが紡ぐ歴史』(文学通信)
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