ライオン宰相・濱口雄幸の直筆に見る凶弾の痛苦 国立国会図書館で閲覧できる死への道程

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憲政資料室は1928年(昭和3年)から1931年(昭和6年)までの濱口雄幸の日記を所蔵しており、その全ページの画像を著作権保護期間満了の資料として公開している。ここから濱口の晩年を追っていきたい。

濱口雄幸のページ

突然細くなる文字

日記の媒体には博文館の日記帳「當用日記」を使っており、1年ごとに4冊が残されている。四女の富士子さんが勧めたのをきっかけに日記を書き始めたという。

明治時代中期には博文館をはじめとした複数の出版社が日記帳を刊行しており、1年単位でデザインされた日記帳に日々の出来事や思いを綴る風習は庶民の間にも広く浸透していた。濱口の日記も日記帳に印刷された日付や日記欄に沿って記されている。毎年違った色や柄のカバー紙で覆うなどの自己流のアレンジも見られるが、基本的にはデザインに委ねた素直な使い方といえる。

公開資料で辿れる最初の記述は、昭和3年の元日に万年筆で記された「宮中拝賀式参列後鎌倉ニ赴ク」というもの。その後数カ月はたまに1行で簡潔に議会や来客の予定を書き込む程度だったが、次第に執筆頻度と文字量が増えていき、欄外に文字が溢れる日も見られるようになった。すっかり毎日の執筆が習慣化したことがうかがえる。

昭和5年11月10日と11日のページ(国立国会図書館デジタルコレクションより、手記画像は以下同)

そのスタイルは昭和5年11月11日まで続いたが、翌日の日記から突然文字が細くなり、紙面の空気が変わる。

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