濱田さんはそれまで、特に大病を患った経験はなかった。高校卒業後、難関大学の受験で2年浪人するも、かなわずに就職。何度か転職し、30歳で接着剤や塗料を開発するベンチャー企業の立ち上げに携わった。少人数だったため、営業や施工、新製品の研究など、多岐にわたる業務をこなした。
激務と引き替えに事業は軌道に乗り、ピーク時の年収は約1500万円に達したという。経済的に恵まれた生活環境は、身体障害者となってから一変。事情を勤め先に説明すると、すぐにリストラされた。退職金も出ず、生活のために貯金を切り崩す毎日。佐賀では障害者向けの求人は少なく、神奈川の自宅へ戻り、ハローワークに通った。
「体が不自由になったとはいえ、頭はハッキリしている。何か自分にもできる仕事があるはず、という思いが心の支えだった」(濱田さん)。ところが、新しい職場は決まらなかった。企業が優先的に雇いたがるのは、受け入れが容易な軽度の障害者。症状が比較的重い濱田さんは、なかなか採用に至らなかった。
8年で4社を渡り歩く
半年ほど過ぎたころ、「自分は誰からも必要とされていない」と心が折れた。妻に「目が死んでいる」と心配され、精神科を受診すると診断は重度の鬱病。飼い犬に癒やされて少しずつ立ち直ったが、約10年間は働けずに無収入状態が続いた。
濱田さんの介護のため、妻は仕事を辞めてパートタイマーになっていた。子供はおらず2人暮らしだったが、その収入だけでは家計を支えきれず、貯金はやがて底をついた。改めてハローワークへ通い始めると、障害者向けの合同面接会への参加を勧められた。
ここから濱田さんの「流浪」が始まる。再び働き始めた2015年から8年間で計4回の離職を経験するのだ。そのうち3社は上場する大企業、1社も上場企業のグループ会社だった。障害者の法定雇用率が上がり、企業の社会的責任(CSR)を重視する風潮が高まった結果、働き口は以前よりも見つけやすくなっていた。
ただ、どの会社でも待遇はパートか契約社員だった。最初に入ったガス会社の月給はおよそ15万円、手取りで約12万8000円。低賃金以上につらかったのは、満足に仕事を与えられないことだった。入社初日に上司から言われたのは「あなたは勤務時間中、ここに座っているだけでいい」。コールセンターのオペレーターとして採用されたものの、最初から法定枠を埋めるための数合わせでしかなかったのだ。
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