ただ、まひろが「北の方に……」と無理を言った気持ちはわからなくもない。平安時代、男性は妻以外にも妾を持つことが珍しくなかったので、「一夫多妻制だった」と誤解されることもあるが、正妻と妾ではまるで立場が違った。
男は正妻とのみともに暮らすのが一般的で、妾のもとにはひたすら通うのみ。愛が尽きれば、足が遠のき、妾はみじめな思いをするのだから、まひろとしても、抵抗があったのだろう。
「一夫多妻制」というワードからイメージされるような、多くの妻がフラットな状態にあるわけではまったくなかったのである。
なんとかして、夫を自分に振り向かせたい。そう考えるあまりに、逆に冷たくしてしまう妾もいたようだ。いわゆる「ツンデレ」である。『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱の母がまさにそうだった。
藤原道綱の母は、藤原兼家の妾だった。『蜻蛉日記』によると、待ちわびた兼家をすんなりと受け入れなかった夜もあったようだ。
あるとき、夕方になると兼家が「宮中の用事から逃れることができないんだ」(「内裏にのがるまじかりけり」)といって、出ていってしまった。
いかにも怪しいと考えた藤原道綱の母は、人についていかせて、兼家を監視させると、こんな報告を受ける。
「町小路のあるところに、車をお停めになりましたよ」
(町小路なるそこそこになむ、とまり給ひぬる)
宮中の用事といいながら、ほかの女のところに行ったらしい。そんなことだろうとは思ってはいても、真実を突きつけられれば、つらいもの。
藤原道綱の母も「やっぱりね」(「さればよ」)と予想していたことではあったが、「いみじう心憂し」と、大変つらかったと胸中を吐露している。
藤原道綱の母が兼家に和歌を贈る
とはいえ、兼家をすぐにとがめる術もない(「言はむやうも知らで」)ままに、2、3日が過ぎると、家の門を叩く者がいた。兼家である。
嬉しい来訪には違いなかったが、すんなりと戸を開けるのは、なんだか癪だったのだろう。藤原道綱の母が、門を開けないで意地を張っていると、兼家はほかの女性のところへと行ってしまった。
兼家からすれば、戸を開けてもらえないのだから、仕方なく立ち去ったまでのこと。だが、わだかまりがある女性側からすれば「ダメなら諦めて、すぐほかのところに行くんかい!」となんだか納得できないのは当然だろう。
「そのままなにもしないでいられまい」
(つとめて、なほもあらじ)
そう考えた藤原道綱の母は、兼家にある歌を贈ることにした。
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