あの人事抗争がパナソニックを没落させた 松下幸之助の"遺言"をめぐる壮絶な抗争

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1993年2月、東京プリンスホテルでの記者会見に臨む松下電器産業(現パナソニック)の谷井昭雄社長(左)と森下洋一新社長。この交代劇には壮絶な人事抗争があった(肩書は当時、写真:読売新聞/アフロ)

「運と愛嬌は備わっているか」

パナソニック(旧松下電器産業)の創業者松下幸之助は、役員候補者のリストを前に、必ず人事担当役員にこう質問していたという。

大阪・船場の丁稚奉公からたたき上げ、一代で世界的な家電メーカーを創り上げた幸之助には、「運」と「愛嬌」がリーダーに欠かせない資質との思いがあった。困難な仕事をものにするには、能力や気力、体力以上に、運を味方につける天賦の才と、愛嬌のある魅力的な人柄が備わっていなければならない、という本能的確信である。

巨艦パナソニックの凋落の原因も、実は人事抗争にあった。会社の命運を握るトップ人事は、なぜねじ曲げられたのか。誰がどう間違えたのか。名門松下電器の裏面史がいま、元役員たちの実名証言によって明らかになる!(上の書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします)

私が、『パナソニック人事抗争史』の取材を通じて知り合った旧松下電器やパナソニックの役員OBたちも、押し並べて愛嬌のある人たちだった。しかしどういうわけか、彼らの運は幸之助亡きあと、一時的であれ急速に失われていった。

パナソニックの人事抗争が、いかに彼らを翻弄し、経営を空転させ、社運を傾かせていったかの詳細については、本書に譲ることにする。ここでは人事抗争の引き金となった出来事と、抗争劇における容赦のない潰し合い、そして「人事」がおかしくなるとき、会社がおかしくなるという普遍の真理を垣間見ておくことにしよう。

パナソニックで“トップ人事”をめぐる人事抗争が起きたのは、4代目社長の谷井昭雄の時代である。約20年前のことだ。

発端となったのは、皮肉なことに創業者松下幸之助の“遺言”だった。幸之助は、ひとり娘の幸子の婿であり会長の松下正治の経営能力を、早くから見限っていて、なるべく早くに経営から手を引かせるよう“遺言”を残していたのである。

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