東大日本史「憲法を捉え直す」一大トレンドの背景 ステレオタイプな思考を打破する試みがある

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次に、民権派が開設を求めてきた議会は、どのように規定されたのかを見てみましょう。ここでも、衆議院の立法権の行使は、華族や勅選議員などからなる貴族院によって制約されたというステレオタイプに縛られていると、植木の評価を見誤ることになります。

第37条・第64条では、法律および予算は帝国議会の協賛を要するとされ、第62条には「現行ノ租税ハ更ニ法律ヲ以テ改メサル限(かぎり)ハ舊(きゅう)ニ依リ之ヲ徴収ス」と租税法律主義も明記されました。伊藤博文を中心に憲法を逐条的に解説した『憲法義解』にも、「議会の議を経ざる者は之を法律とすることを得ざるなり」とあります、議会には法律・予算に関する権限が与えられたのです。

とりわけ議会にとって強力な武器となったのが、予算に関する次の第71条です。

「第七十一条 帝国議会ニ於テ予算ヲ議定セス又ハ予算成立ニ至ラサルトキハ政府ハ前年度ノ予算ヲ施行スヘシ」

予算不成立時は前年度の予算を執行するものとするこの規定により、政府は議会の同意なしに新しい予算費目を立てられなくなりました。実際に、1890年の開設後の初期議会では、予算をめぐって政府と議会の激しい攻防が繰り広げられています。

日本国憲法を適切に運用できているか問いかけている

問題にもあるとおり、大日本帝国憲法は君主である天皇の意志によって制定された欽定憲法という形式をとりました。

そして、その制定の主導権は、1881年に国会開設の勅諭を発して民権派の急進的な動きを封じ込めて以来、伊藤博文を中心とする薩長藩閥政府が完全に握っていました。伊藤は渡欧してプロシア流(ドイツ流)の君主権の強い憲法を学び、帰国後、草案の準備にかかりますが、その内容は1889年2月11日(紀元節)に発布されるまで、国民に全く知らされませんでした。

ですが、植木枝盛は、フランス革命のようなことのない平和な状況で制定されたこと、各国の憲法を比較しながら講究できたことなどを理由に、大日本帝国憲法へ全幅の信頼を寄せています。

そして、発布後には郷里の高知で発行していた『土陽新聞』に「善く代議政体の本旨を得たる」と記しました。

その理由は、いま見たとおりです。大日本帝国憲法には立憲主義の原理が貫かれており、議会を通じて自らの意見を政治に反映できると考えたからこそ、植木枝盛をはじめとする民権派は、憲法制定においてカヤの外に置かれていたものの、これを良しとして祝ったのです。

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