東大日本史「憲法を捉え直す」一大トレンドの背景 ステレオタイプな思考を打破する試みがある

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東大日本史の問題は、自分がとらわれていたステレオタイプな思考に気づかせてくれるところにこそ、面白さがあります。今回もそのような問題を紹介しましょう。

〈問題〉
次の文章を読んで、次の設問に答えなさい。
一八八九年二月、大日本帝国憲法が発布された。これを受けて、民権派の植木枝盛らが執筆した『土陽新聞』の論説は、憲法の章立てを紹介し、「ああ憲法よ、汝すでに生れたり。吾これを祝す。すでに汝の生れたるを祝すれば、随ってまた、汝の成長するを祈らざるべからず」と述べた。さらに、七月の同紙の論説は、新聞紙条例、出版条例、集会条例を改正し、保安条例を廃止すべきであると主張した。
〈設問〉
大日本帝国憲法は、その内容に関して公開の場で議論することのない欽定憲法という形式で制定された。それにもかかわらず民権派が憲法の発布を祝ったのはなぜか。3行以内で説明しなさい。
(2014年度・第4問)

東大日本史の近現代では、大日本帝国憲法が一大テーマとなっています。そこにあるのは、大日本帝国憲法を通じて日本国憲法を捉え直すという意図です。実際、国会での憲法改正論議の高まりに呼応するように、出題頻度も高くなっています。

さて、大日本帝国憲法の一般的なイメージというと、「天皇が元首として主権を握り、国民(臣民)は権利・自由が制限された」といったところでしょうか? 

しかし、そのようなステレオタイプな思考にとらわれていては、民権派の植木枝盛が大日本帝国憲法の発布を祝った理由は見えてきません。植木と言えば、人権の無制限での保障や、政府に対する抵抗権などを盛り込んだ急進的な私擬憲法である、「東洋大日本国国憲按」の起草者として知られます。その植木が大日本帝国憲法を評価したというのは、そこに立憲主義の精神が通っていたからです。

大日本帝国憲法に埋め込まれたデモクラシー

立憲主義とは、統治権の行使は憲法によって制限されるという、近代国家の原理のことです。

なぜ統治権の行使が制限される必要があるのか? それは、個人の権利・自由を保障するためにほかなりません。権力者が統治権を振り回せば、個人の権利・自由は侵害されてしまいます。そこで、それを抑止するために近代憲法に盛り込まれているのが、統治権を立法・行政・司法の諸機関に分けるという権力分立(三権分立)です。

大日本帝国憲法が立憲主義に基づいていたというのは、次の条文から見て取れます。

「第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」

天皇は憲法の条規に則って統治権を行うものとすると、立憲主義が明確に述べられていますね。実は、「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という文言は、憲法草案の審議において伊藤博文の強い意向により採用されたものであることが知られています。伊藤は、立憲主義の精神を正しく理解していたのです。

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