「報道される死者数の規模から、人的被害が出てもおかしくないとは覚悟していた。でも、同じムラタの大切な仲間。言い表せないほどショックだった」(上林部長)
従業員や家族の安否確認、生産再開の段取り、取引先への説明……。悲しみに浸る暇もなく、やるべき膨大な作業が浮き彫りになっていく。
激務の渦中でも、会議では自然と支援の話題が出た。無事だった石川県金沢市の工場を拠点に、備蓄していた食料や衛生用品、仮設トイレを集めた。被災した自治体と調整のうえで、工員らが4トントラックやワゴン車に詰め込んで物資を現地へ届けた。
義援金についても「やれるだけのことをやろうという気持ちは、みんなが持っていた。そこにロジカルな理由はあまりない」(上林部長)。担当役員と電話で協議を重ね、5億円と決定。役員会に諮ると中島規巨社長も一言、「それでいい」と許可したという。
黎明期を支えた北陸の工場群
村田製作所と北陸地方の縁は深い。1944年10月創業の同社が福井県に生産工場を設けたのは1951年のことだった。
きっかけは、創業者の村田昭氏と福井県窯業試験場(現福井県工業技術センター)の場長の会話だ。村田氏は場長から「ここの土質は良い。工場にも向いているのではないか」と勧められた。2人は元々、知人関係だった。
村田製作所は現在、スマホなどで多く使われる積層セラミックコンデンサー(MLCC)で世界シェア約4割を握り首位。連結売上高も直近実績の2022年度で約1兆7000億円を誇る、世界的な電子部品メーカーだ。
だが、当時は数ある中小企業の1つにすぎなかった。事業を拡大しようにも、都市部では人材の獲得競争に勝てない。福井県側の誘致は渡りに船だったというわけだ。国鉄(当時)の北陸本線が東海道本線と山陽本線に次ぐ利便性を持ち、製品の配送に便利なのも決め手になった。
そこに朝鮮戦争の特需景気や民放ラジオのブームが重なった。主力製品であるコンデンサーの需要は急拡大し、福井工場もフル稼働。地元の優秀な工員を確保できたため、京都では1日2000個しか製造できなかった部品を、同3000~3500個ほど作る能力を有していた。
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