雇用が生まれたことで、街もにぎわった。それを見た石川県や富山県など、近隣の自治体からも誘致が相次いだ。1984年までに3県で計13カ所の工場を設立し、現在まで続く。
とくに福井にはMLCCの主力工場もある。北陸は会社の黎明期を支え、発展の礎を築いた大切な土地なのだ。
村田氏は北陸を単なる生産地として見ていたわけではない。同社広報部の五井健裕氏は、「幹部候補生に生産技術を学ばせ、一人前に育て上げる『修行の場』としても、創業者は北陸の工場群を重視していた。その構想は当時のメモにも残っている」と語る。
福井で「修行」した中島社長の思い
実際、多くの社員が若い頃に北陸地方へ配属され、後の主力メンバーや経営層に名を連ねている。2020年に創業家以外で初の社長となった中島氏もその1人だ。20代の頃に福井村田製作所で勤務経験があり、現在は福井県越前市のふるさと大使も務めている。
その思い入れは深い。今回、東洋経済の取材に対し、中島社長は文書で以下のようにコメントを寄せた。
「私を含め、村田製作所の多くの従業員は、北陸の地で従事した経験がある。村田製作所と能登地方をはじめとした北陸との繋がりは非常に強く、今回の地震災害は、とてもひとごとではすまされない」
「震源に近い能登半島には中小規模の事業所が4拠点あり、定期的に訪れてきたこともあって、活気ある生産現場やそこで働く皆さんの姿が目に浮かぶ。被災した従業員とその家族が一日でも早く日常を取り戻せるよう、並びに被災した事業所が早期にその活気を取り戻し、地域が復興を遂げられるよう最大限の支援を行っていくのはムラタの使命だ」
「個人的には、有志による義援金募金への参加、能登の物産の購入や能登地方を訪れる機会を増やし、産業の復興支援に微力ながら貢献できればと思う」
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