戦術の使い手、信長にあって義経になかった視点 歴史の偉人に学ぶ「戦術」の遂行に必要なもの

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こうした奇襲や奇策はすべて、勝ちさえすればいいのだ、とする山賊の生き方から学んだものであり、義経自身は卑怯なやり方とは思っていなかったのでしょう。

いい意味でも、悪い意味でも、義経には武士としての意識、教養がありませんでした。だからこそ生まれた、新しい戦術だったわけです。

現代の感覚からすれば、義経のやり方はけっしておかしなものではありませんが、源平争乱の時代の武士には受け入れられなかったようです。

もっとも、常識に縛られて同じやり方を繰り返してしまいがちな、現代の私たちも、義経のように「何でもあり」と自由に考えてみることは、発想を広げるよい訓練になるのではないでしょうか。

新しいものは常識の外側にあることを、義経は私たちに教えてくれます。

リーダーの説明、説得が不可欠

義経に足りなかったのは、むしろ部下=正規の武士に対する状況説明でした。いかに卓越した戦術であっても、周囲に認められなければ、「あいつは卑怯だ」「ズルをして勝った」と後ろ指をさされかねません。部下が新戦術を理解するためには、リーダーの説明、説得が不可欠です。

義経の周りにいた山賊出身の者たちと違い、源氏の将兵の多くは武士の誇りを大切にしていました。源平時代の武士たちにとって、戦とはまず両軍が対峙し、鏑矢がうなりを発してヒューッと鳴りながら飛んでくるのを合図に、馬上から「やあやあ、我こそは……」と名乗り合って始まるものでした。

ところが、義経は敵に気づかれないように後ろに回って、いきなり斬りかかれといいます。非戦闘員を的にして狙えといわれても……、と源氏の将兵たちはその卑怯千万な戦法に躊躇してしまいます。その結果、「こんな戦いで勝っても、武士の面目が立たない」という部下の反発を生んでしまいました。

しかし、義経は「勝ったからいいじゃないか」という態度で部下に接し、彼らに自らの戦術の理解を求めようとはしませんでした。

こうした不満をのちに異母兄である源頼朝は利用して、武功のあった義経を徐々に排除していく流れをつくったのではないか、と筆者は見ています。

一方で、無口で冷酷なイメージのある織田信長は、意外に部下への説明やフォローを怠りませんでした。彼も旧態依然とした合戦の方式を、長槍の集団戦術や鉄砲隊などの新戦術によって、一変しています。

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