戦術の使い手、信長にあって義経になかった視点 歴史の偉人に学ぶ「戦術」の遂行に必要なもの

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新しい戦術を駆使して、相手を翻弄した歴史上の武人には、源義経がいます。いわゆる、“鵯越えの逆落とし”で、一の谷の平家の本陣に対して、義経は背後の鵯(ひよどり)越えと呼ばれる急峻な崖を、騎馬隊で駆け下りて奇襲をかけました。

あるいは、“壇ノ浦の戦い”では、従来は合戦においてタブーとされていた船の漕ぎ手を狙い撃ちすることで、平家の水軍の動力を断ち、常勝水軍を打ち破っています。

いずれも、義経の新しい発想から生まれた戦術でした。ではなぜ、彼は誰も思いつかなかった戦い方ができたのでしょうか。

山賊流の兵法で敵を次々に撃破

フィクションで描かれる義経は、京の洛北・鞍馬寺で修行をしている最中に弁慶と出会い、ともに奥州の藤原秀衡を訪ねて、平泉に行ったといわれています。そこで数年間、武士としての教育を受けたとされていますが、どうやら史実ではないようです。

こうしたエピソードの基になっていたのが、義経が生きた時代から200年以上のちの室町時代に書かれた、『義経記』という歴史小説だったからです。

では、真実の義経とはいったい何者だったのでしょうか? 

鎌倉時代に描かれた『平家物語』や『吾妻鏡』に、義経の“一の郎党”として描かれているのは、弁慶ではなく、伊勢国(現・三重県の大半)鈴鹿の峠で山賊をしていた伊勢三郎義盛でした。

『平家物語』に弁慶は、名前しか出てきません。五条の橋で牛若丸(義経の幼名)と戦ったり、立ったまま死んだというのは、『義経紀』からの創作記述です。

史実の義経は、鈴鹿山で伊勢義盛と一緒に、山賊まがいの生活を送っていたのではないでしょうか。奥州には行っていなかったのではないかと、筆者は疑ってきました。義経が伊勢義盛から、山賊流の兵法(?)を学び、それを実践したとすれば、その後の彼の活躍ぶりが説明できます。

当時の武士たちのように、正々堂々と名乗りをあげて、真正面から戦うのではなく、気づかれないようにそっと背後から近づき、いきなり襲いかかります。前述したように、舟の漕ぎ手のような非戦闘員=盲点にも攻撃を仕掛けるわけです。

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