『独ソ戦』著者が解き明かす第2次大戦勝敗の本質 ナチスの命運分けた重点なき「バルバロッサ」作戦

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9月15日、ロスベルクが完成させた「東部作戦研究」なる報告書(通称「ロスベルク・プラン」)では、ソ連軍が取り得る作戦を考慮した上で、敵の対応策でもっとも危険なのは、国土の深奥部まで退却し、ドイツ軍が補給の困難に苦しみはじめたあたりで反攻に出ることだとされていた。まずは妥当な考察といえる。

ただし、それに対するロスベルクの方策は、やはり作戦レベルの処方箋でしかなかった。ヨーロッパ・ロシアを南北に分けている巨大な湿地帯(プリピャチ湿地)の北に2個軍集団を配し(この兵力配分は、「マルクス・プラン」においてもほぼ同じだった)、その南側の軍集団に快速部隊を集中してモスクワに突進させつつ、プリピャチ湿地の南方に総兵力のおよそ3分の1を投入、前進させる。北の2個軍集団と南の1個軍集団は、前面のソ連軍が東方に逃れるのを阻止しながら進撃、プリピャチ湿地の東で手をつなぎ、全戦線にわたる攻勢に出る。最終目標とされたのは、アルハンゲリスク、ゴーリキー、ヴォルガ川、ドン川を結ぶ線であった。

このように、「ロスベルク・プラン」はソ連軍主力を重点とみなす作戦案であり、モスクワを重視する「マルクス・プラン」とのぶれが生じていたといっても過言ではあるまい。

決められなかった「重点」

1940年9月3日、ハルダーは、陸軍参謀次長フリードリヒ・パウルス中将に、マルクス・プランほか、OKHで検討されたいくつかの作戦案を総合し、包括的な計画を作成するように命じた。パウルスは、モスクワこそ最重要目標だとするハルダーの判断をもとに計画案を作成、10月29日に提出したのち、その有効性を検討するために、12月初旬に3回の図上演習、今日の言葉でいうシミュレーションを実施する。

ところが、図上演習が終了する直前、12月5日にOKHの作戦企図きとが報告された際、ヒトラーは、重要きわまりない判断を開陳した。モスクワの早期占領はさほど重要ではないとし、プリピャチ湿地の北にある軍集団に包囲殲滅戦を実行させ、しかるのちに南北にそれぞれ旋回させて、バルト三国とウクライナにある敵を撃滅するとの構想を示したのだ。そうして、ソ連軍主力が消滅したのちには、モスクワはおろか、ヴォルガ川やゴーリキー、アルハンゲリスクまでも一気に進撃できるというのがヒトラーのテーゼであった。

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