『独ソ戦』著者が解き明かす第2次大戦勝敗の本質 ナチスの命運分けた重点なき「バルバロッサ」作戦

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にもかかわらず――かような思想を叩き込まれていたはずのドイツの参謀将校たちは、第2次世界大戦で重点を明確に定めることなく作戦を立案し、「人格なき人間」の振る舞いを演じた。史上最大の陸上作戦となった1941年のソ連侵攻である。当然のことながら、この侵略は行き詰まり、ドイツ軍は決定的な戦果を得られないまま、ソ連の首都モスクワをめぐる攻防戦で一敗地にまみれることとなった(ソ連の地名は歴史的なものとして、当時のロシア語呼称にもとづくカナ表記を用いる。以下同様)。

それまで連戦連勝を続けてきたナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラー、そして、選良せんりょう中の選良であったはずのドイツ国防軍の参謀将校たちは、なぜ、かくのごとき愚行をしでかしたのであろうか。彼らの失敗の過程をたどれば、作戦立案時点ですでに決定的な誤断が内包されていたことが見て取れる。

練りつづけていたソ連侵攻計画

第2次世界大戦後、生き残った国防軍の将軍たちは、ヒトラーの命令への服従という軍人の義務ゆえに対ソ戦を遂行したのであって、自分たちはけっして積極的ではなかったとする伝説を流布した。けれども、その後の研究の進展により、ヒトラーの決定が下される前から、ドイツ国防軍がソ連侵攻の計画を練っていたことがあきらかにされている。

かかる動きの背景には、ドイツが西方作戦を実行しているあいだに、ソ連に背後をかれるのではないかという不安があった。1939年9月にポーランドに侵攻し、西部地域を占領したドイツは、同じくその東部地域をわがものとしたソ連と国境を接することになっていたのである。両国間には不可侵条約が存在していたが、ドイツはそれを信じて安心するほどナイーブではなかったのだ。結局、ドイツ陸軍総司令部(OKH)は、1939年から40年にかけて西部戦線で英仏連合軍と対峙しているあいだ、さらにはその後も、ソ連がドイツに侵攻してきた場合の作戦計画を練りつづけていた。

しかし、当初は防衛を主眼に置いていた作戦は、ドイツの西方侵攻によりフランスが戦争から脱落したのちに、積極的な色彩を帯びはじめる。1940年7月3日、陸軍参謀総長フランツ・ハルダー砲兵大将(同年7月19日、上級大将に進級)は、OKH作戦部に対ソ戦を検討するよう指示した。ドイツ陸軍首脳部は、ヒトラーと同じく、ソ連を倒せば、さしもの頑強なイギリスも希望を失い、講和に応じるのではないかと考えはじめていたのである。

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