『独ソ戦』著者が解き明かす第2次大戦勝敗の本質 ナチスの命運分けた重点なき「バルバロッサ」作戦

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翌4日、ハルダーは、ドイツ東部の防衛を担当する第18軍の司令官と参謀長を呼び、国境にソ連軍の大兵力が集結していると告げた上で、攻勢計画の立案を命じた。これは、7月22日付「第18軍開進訓令」に結実する。そこには、ソ連がドイツに侵攻した場合のみならず、死活的に重要な石油を産するルーマニアに脅威をおよぼしたときにも、「紛争」に突入すると想定されていた。こうして、国防軍が対ソ戦を視野に入れはじめたところに、ヒトラーの意思決定が重なっていったのである。

加えて、ドイツ国防軍にはソ連軍の実力軽視、それも根拠のない過小評価があった。1940年7月21日に開かれた会議で、陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥は、ソ連軍が使用し得る優良師団は50個ないし75個程度と予想されるから、作戦に必要なのはドイツ軍80個から100個師団ほどだろうと述べた。驚くほどの楽観であるけれども、これが当時のドイツ軍に蔓延していた暗黙の了解なのであった。

具体化する作戦計画

いずれにせよ、かかる「空気」のなかで、ソ連侵攻作戦の立案が進められていく。初期の検討を経て、ハルダーは7月29日に、第18軍参謀長エーリヒ・マルクス少将に、独自の作戦計画を起案するよう命じた。マルクスは、8月5日から6日にかけて、ハルダーに報告と説明を行い、のちに「マルクス・プラン」と通称されることになる作戦計画を提出した。

この作戦案は、ドヴィナ川北部、ヴォルガ川中流域、ドン川下流域を結ぶ線を到達目標とし、食糧・原料供給地であるウクライナとドニェツ川流域、軍需生産の中心地モスクワとレニングラード(現サンクト・ペテルブルク)を占領するという壮大な計画であった。注目すべきは、政治的・精神的・経済的な中枢であるモスクワの占領と、それにともなう敵軍の崩壊により、ソ連は解体するとされていたことであろう。

本稿冒頭に示したクラウゼヴィッツの概念にしたがうなら、ハルダー以下のドイツ陸軍首脳部は、首都モスクワこそがソ連の「重点」だと考えていたのである。

なお、マルクス・プランでは、これだけの大作戦を、9ないし17週間で完遂するものとしていた。当時のドイツ軍が、いかに自らの能力を過信していたかを示しているといえよう。

一方、ドイツ国防軍最高司令部(OKW)でも、国防軍統帥幕僚部長(作戦部長)アルフレート・ヨードル砲兵大将が、OKHとは別の視点から対ソ戦を検討するように、部下のベルンハルト・フォン・ロスベルク中佐に命じていた。

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