加持祈禱(かじきとう)をふたたびはじめるようにと言い残して、光君は乳母の家を出ようとし、惟光に紙燭(しそく)を持ってこさせて先ほどの扇を見た。長く使いこまれ、かぐわしい移り香が漂う扇に、うつくしい字で書き流してある。
心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔(ゆふがほ)の花
(当て推量ですが、源氏の君かとお見受けします。白露の光にひとしおうつくしい夕顔──夕影に光輝くそのお顔は)
だれとわからないように変えてあるその筆跡も、気品があり、奥ゆかしい。みすぼらしい家なのに、ずいぶんと気の利いた人が住んでいるのだなと感心し、光君は惟光に、
「この西隣の家はどんな人が住んでいるのか、耳にしたことはないの」と訊(き)いた。
ああ、いつもの厄介な癖がはじまってしまった……と思いながら、
「この五、六日、こちらにおりますが、病気の母が心配で看病に追われておりましたから、隣のことは訊く余裕もありませんでした」と惟光はそっけなく答えた。
「私のことをしょうがない人間だと思っているんだね。でも、この扇については調べてみなければならないわけがありそうだよ。このあたりの事情を知っている人を呼んで、訊いてみてくれないか」
そう光君に言われ、惟光は家に戻り、管理人を呼んで訊いてみた。
もっと近くに寄って確かめたら…
「さる揚名介(ようめいのすけ)(地方の次官)の家でございました。夫は地方に行っていて、妻君は若く派手好きな人で、その姉妹が宮仕えをしていて、しょっちゅうやってくるそうです、と管理人が申しておりました。召使いなので、そうくわしくはないようですが」と惟光は聞いたことを伝える。
それではその宮仕えをしている姉妹だったのか、得意げに、ずいぶん馴(な)れ馴(な)れしく詠みかけてきたものだ……相手にするべくもない身分の低い女なのだろうと思いはするが、この私宛てに歌を贈ってきた気持ちはうれしく、無視するわけにもいかない。……などと考えるのは、いつものことながら、女のこととなるとじっとしていられない性分であるようで……。
懐紙(ふところがみ)を出し、まるきり筆跡を変えて、
寄りてこそそれかとも見めたそかれにほのぼの見つる花の夕顔(ゆふがほ)
(もっと近くに寄ってだれなのか確かめたらいかがでしょう、夕影の中、ほのかにご覧になった夕顔を)
と書きつけ、先ほどの随身に持たせた。
この夕顔の家の女たちは源氏の姿をまだ見たことはなかったが、はっきりと察しのつくほど高貴な横顔を見て、ついいきなり歌を詠みかけてしまったものの、返事もなく、ばつの悪い思いをしていたところにわざわざ返歌があったものだから、「どうお返し申したらいいかしら」などと調子に乗って言い合っている。身の程知らずもいいところだと、随身は渡し終えるとさっさと引き上げた。
次の話を読む:道々の色恋に心弾ます男と、それに悩み募らす女
*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
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