紫式部が友達の人生相談に送る「心が晴れる言葉」 遠方に行くか悩む友達に、どうアドバイス?
しかし成長してから、幼友達に再会したものの、ゆっくりと話す間もなく、帰ってしまったというのです。
式部が会った友達というのは、女性でしょう。当時は現代のように蛍光灯もありませんから、夜に会う場合、灯台の火を近付けて、おしゃべりしたのではないでしょうか。
これは『紫式部集』の1首目であり、百人一首にも載る有名な歌です。そして、2首目は、なんと別れを詠んだ歌でした。
「その人の遠き所へいくなりけり。秋の果てる日来たるあかつき、虫の声あはれなり」との詞書があり、その後で「鳴き弱る籬の虫もとめがたき秋の別れや悲しかるらむ」と詠む。これは、誰との別離を詠んだ歌なのでしょうか。
この和歌は、先程紹介した幼友達との別れの悲しみを詠んだものと解釈されています。女友達の父は、国司(諸国の政務を管轄した地方官)に任命されるほどの有力者だったと考えられ、国司としての赴任先が決まったのでしょう。
しかし、それは式部との別れを意味します。京都にも近い畿内の国司ならまだしも、「筑紫へ行く人のむすめの」「西の海を思ひやりつつ月みればただに泣かるるころにもあるかな」との女友達が詠んだ歌もあるように、女友達は筑紫(筑前・筑後。今の福岡県)に行くことになったようです。
友達の父は筑前守か筑後守に任命されたか、太宰府の役人にでもなったのでしょう。その女友達は、これから目にするであろう西海を想像し、都の月を見ただけで涙があふれ出てくると心情を吐露しています。
九州に下るということは、今で言えば、外国に行くのと同じようなことで、不安や心細さが友達の心をかき乱していたはずです。
友達への思いやりが伝わる返歌
この女友達の歌に対し、紫式部は「西へゆく月のたよりに玉づさの書き絶えめやは雲の通い路」と返歌しています。
つまり「月は毎夜、西を指してまわっていくので、月にことづけてでも、お便りを差し上げます。お手紙を欠かさないわ」というような意味です。式部の友達に対する思いやりが色濃く出ている歌といえるでしょう。
この友達以外にも、紫式部には女友達がいたようで「はるかなる所に行きやせむ行かずやと思ひわづらふ人の、山里よりもみぢを折りておこせたる」との詞書もあります。
「遠いところに行こうかどうしようか、思い悩んでいる人が、山里から紅葉した木の枝に歌を付けて寄越してきた」のです。風流ですね。
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