織田信長の謎に包まれた「女性関係」の不思議 釣った魚には餌をやらない人物だった?
『信長公記』が当てにならない以上、次の頼みの綱はキリスト教の宣教師たちが書いた史料です。信長は彼らとの交流が深かったので、その文章の中に信長が登場することがあります。ところが、こちらにしても、宣教師が美濃の岐阜城に信長を訪ねたときに、「信長の妻たちが居住しているスペースに」などと妻に関連する記述こそあれど、具体的な固有名詞が出てきません。
信長に妻が複数いたのは間違いないようですが、信長の愛を独占したような女性がいたのかは、まったくよくわかりません。まさに歴史研究者としては歯がゆい限りです。
信長は、女性に対する愛情が薄い人間だった?
これら史料の少なさを見ると、おそらく信長は、日頃から妻をいたわったり、妻を愛したりする人物ではなかったのではないかと思わざるを得ません。言い方は悪いですが、信長は、女性はあくまで子どもを作る道具のように扱っていたのではないでしょうか。
戦国時代から江戸時代にかけて登場した信長、秀吉、家康の三人の天下人を見ても、一番女性たちのサポートなどを必要としないのは信長だったのではないかと思います。秀吉は女性がいないとダメだし、家康についても女性との恋愛話は多々残っています。しかし、信長には一切それがありません。
信長の部下に対する扱いを見ていても、「使い捨て」が基本です。その感覚は妻にも通じるところがあったのかもしれない。
だから、信長は多くの妻を娶ったかもしれませんが、彼女たちの人格をきちんと認めていなかったのではないかとすら思ってしまいます。事実、自分の妹であるお市の方に対しても、夫の浅井長政を滅ぼした上、彼女が産んだとされる長政の男の子も殺しています。
仮に、信長に最愛の女性がいたのであれば、妻を複数人持っている以上、秀吉がおねに抱くような気遣いをするはずですが、信長に関する史料からは、その様子は一切見えません。冒頭でご紹介した、北政所にしたためた優しい手紙にしても、他人の妻には優しくとも、自分の妻には優しくしない。まさに、釣った魚には餌をやらない人物だったのではないでしょうか。
これについては、歴史的なアプローチだけではなく、精神医学の専門家などから意見を聞いてみるという試みも必要かもしれません。今後も、信長の恋愛関係やその傾向については、ひそかに探求を続けたいと思います。
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