織田信長の謎に包まれた「女性関係」の不思議 釣った魚には餌をやらない人物だった?

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この方の話によれば、信雄の家で濃姫の面倒を見ていたという話が伝わっているそうで、いまだに彼女の供養などを続けているそうです。仮にその話が真実ならば、濃姫は本能寺の変の後も生き続け、天寿をまっとうしたとの推論は成り立ちます。

一方で、信長が濃姫に対して、本当に深い愛情があったのかは、やはりよくわかりません。

例えば、秀吉の場合は、あれだけの遊び人にもかかわらず、身分が低い時代から自分を支え続けてくれた妻・おねをずっと大切にし続けました。どんなに若い妻を娶ろうとも、最後の最後まで数いる妻の中で、ずっと彼女を一番高い地位に置き続けたからこそ、おねは周囲から尊敬を受けることもできました。これは、秀吉が北政所に対して、深い愛情を抱いていたことの表れでしょう。

では、信長の正室である濃姫が、織田信長に愛されていた女性たちの間で一番の座にいたのか。わかりません。信長が秀吉の妻である北政所には優しい手紙を書く一方で、自分の正室である濃姫に対して優しい言葉をかける手紙などは残っていません。

この事実からも、実は信長は自分の妻には優しくなかったのではないか、と僕は思ってしまいます。

信長の長男、次男、三男を生んだ母親は誰だったのか

信長は子沢山で、二十人近くの子どもがいたと言われていますが、彼らを産んだ母親は誰だったのかも、確固たる史料は残っていません。

まず、跡取り息子である信忠の母親も、誰だか不明です。かろうじて「母親の可能性がある」として名前が挙がっていたのが、次男の信雄の母だろうと言われる生駒吉乃という女性です。

彼女は尾張生駒家の女性で、信長の本妻だったのではないかという説があります。なぜ、彼女が本妻だと思われたのかは、次男の信雄と三男の信孝の序列にありました。

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