織田信長の謎に包まれた「女性関係」の不思議 釣った魚には餌をやらない人物だった?

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信長の死後、清州会議では、織田の土地をどう分けるかが議論されました。実は、三男である信孝は次男の信雄よりも20日ほど先に生まれたものの、母親の身分が低かったので、信雄が兄として扱われたという説があるのです。

この場合、信雄の母親である生駒吉乃が名門の娘だということになりますが、実は生駒家はさほど立派な家ではありません。そうなると、重視されたのは、母親の家の格ではなくて、彼女が信長の正妻扱いされていたからではないか。加えて、信忠という長男を産んでいたからこそ、吉乃が信孝の生母よりも上に置かれたという話があってもおかしくありません。

ところが、長男の信忠と次男の信雄は母親が違うという話もあるので、吉乃がとくに信長に愛されていたという話の信憑性もどんどん薄くなってしまいます。

史料から読み解く、信長の女性関係

では、数少ない史料は、信長の女性関係についてどう言及しているのでしょうか。

信長を知る上で、一番基本的な史料は太田牛一が書いた『信長公記』です。織田家に仕えた武士だった太田牛一は、この時代には珍しくジャーナリストの資質を持った人物で、信長の実態を知るために、多くの人に取材をし、信長の一代記を書いています。だから史料としての信頼度はそれなりに高い。

ところが、この『信長公記』には、信長の妻についてはまったく書かれていません。現代の感覚でいえば、誰かの人物伝を書く場合、パートナーについては必ず言及するものでしょう。なぜなら、そのほうが人となりがよくわかるからです。でも、残念ながら、そうした記事は見当たらない。

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