子どものケンカ「仲直りを促さない」凄い教育の訳 工藤勇一×西岡壱誠「教育の役割」対談【中編】
そもそも、多様な人々が生きていくのだから、対立が起こるのは当たり前。平和で持続可能な社会を築いていくためには、多様性の中で対立を解決する対話の技術を、子どもたちに教えておかなければ、という考え方です。
それが市民教育として広がりました。その基になっているのが民主主義という考え方なのです。
日本の間違った幼児教育
工藤:いったん対立が生まれると、人はどうしても感情的になってしまいます。すると、ますます自分の考えを変えられなくなり、争いは続いてしまいます。
日本社会では人の気持ちを考えて、対立を解決しようとすることを幼いうちから教えられていますが、民主主義的な考え方では、むしろ人の気持ちに目を向けません。互いの利害の対立に目を向けます。国同士の争いごとにおいては、まさに「平和を実現させよう」という上位概念です。これさえ合意できれば、たとえ感情の対立は解決できなくても、互いにとってもっと重要な利害の対立が解決できることになります。
西岡:それを子どものうちから教えるわけですね。
工藤:そうです。体験を通して教えていくことが大切です。ところが日本で近年目立つのは、対立を起こさないよう、大人がなんでも子どもに手を貸してしまいます。
例えば、公園の砂場では、親が「友達にシャベルを貸してあげたら?」と自分の子に促します。借りた子の親は「ありがとうね。ほら〇〇ちゃん、ありがとうは?」といった感じです。
ヨーロッパの教育では、基本的にほったらかしです。子どもがどうするのか、見ていればいいのです。
人のシャベルを勝手に取ってトラブルも起きますが、泣くことによって自尊感情が芽生えますし、次の日には「貸して」「いや」「なんで?」「返してくれないから」という会話も生まれる。これは大事な社会性の学びですよね。
この体験をしている子どもたちは、対立を解決するために利害に注目し、感情をコントロールできるようになります。
でも、大人が手を貸して解決し続けた子どもたちは、大人が警察官になり裁判所になれよと要求する。うまくいかないと、「あいつをどこかへやってくれ」「お母さん、あの子意地悪だからなんとかして!」となる。これでは当事者として多様性を受け入れる社会は作れません。