「中国思想」は日本にどこまで受容されているのか 「礼」の本質は「かのように」振る舞うということ

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古川:儒教と正反対の個人主義・普遍主義の道徳の典型が、カントの道徳論ですが、それがいびつだということでよく槍玉にあげられるのが、うそをめぐる問題です。殺人者に追われている友人を助けるためにうそをつくことが許されるかという問いに対して、カントはダメだと言う。うそをついてはいけないというのは、個人が絶対的に従うべき普遍的な命法だから、と。孔子だったら、そんな馬鹿な話があるかと言うでしょう。

しかし、他方で、『論語』にはこういう話もあります。盗みをはたらいた父親を、子どもが告発した。それに対して孔子は、そんなことをしてはダメだという。「父は子のために隠し、子は父のために隠す」べきである、と。そう言われると、それはそれでどうなんだろうと思うわけですね。そういう場合は、むしろカント的に、共同体の倫理に逆らって、個人の道徳を貫くべきではないかとも思うわけです。

そう考えると、集団の規範と個人の道徳というのは、単純な二者択一の問題ではなく、本当に大事なのは、両者のいわば弁証法的なダイナミズムのようなものではないかと思います。

中野:また中国のドキュメンタリーの話になりますが、そこでは、燕の国はいい人たちがいっぱいいる国で、代々の燕の王様が王道を目指して頑張る姿が描かれていました。だけど、燕も滅ぼされます。燕については、「戦国時代に王道は通じなかったのである」といった趣旨のナレーションが入っていましたね。

佐藤:「王道とは何か」という問いの答えにすら、王道は存在しない、すべては状況次第である。悪い時代に王道を貫こうとするなど、自滅に至る最も効率的な方法だ!

中野:だから、人間的にはまったく尊敬できないような総理大臣が日本を豊かにした可能性だってあるし、逆に尊敬できる首相がダメにすることもある。

「個の確立」とは演技である

佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家・作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。1990年代以来、多角的な視点に基づく独自の評論活動を展開。『感染の令和』(KKベストセラーズ)、『平和主義は貧困への道』(同)、『新訳 フランス革命の省察』(PHP研究所)をはじめ、著書・訳書多数。さらに2019年より、経営科学出版でオンライン講座を配信。『痛快! 戦後ニッポンの正体』全3巻、『佐藤健志のニッポン崩壊の研究』全3巻を経て、現在『佐藤健志の2025ニッポン終焉 新自由主義と主権喪失からの脱却』全3巻が制作されている(写真:佐藤健志) 

佐藤:この本で面白いと思ったのは、「個の確立」を目指すうえで、大場さんがずっと「なりきる」という表現を使っていることです。「なる」ではなく「なりきる」。ここには「本当のところ、確立された個になったわけではないが、なった振りをする」というニュアンスがある。つまり「なりきる」とは演じることなんです。

演技とは「本物の印象を与える見せかけ」をつくりだすことです。よく「役になりきる」と言いますが、誰であれ、ハムレットやジェリエットに文字どおり変身できるはずがない。言い換えれば、「本当はなれない」ことが大前提になります。それでも心を込めて技巧をこらせば、ハムレットやジュリエットの印象を的確に与えることはできる。なれないものになりきるというパラドックスが成り立つのです。

この座談会の前編で、「自分を予備に置く」という話が出ましたが、舞台に立つとき、役者は必ず本当の自分を予備に置いています。ならば個の確立とは、「集団の一員としての自分」や「集団から離れた自分」を確固として演じきることではないのか。つまり思想とは、より良い自分を演じるための指針なんだと思います。

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