「中国思想」は日本にどこまで受容されているのか 「礼」の本質は「かのように」振る舞うということ

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中野:このタイプの知識人階級って、近代西洋でもヨーゼフ・シュンペーターとか、カール・マンハイムとか、そういう人たちが描いた知識人階級に似ていますね。無責任に理想を言ったり、嫉妬深くて、人の足を引っ張ったり、陰口を言ったりしてばかり。そういういやらしい連中が知識人にはたくさんいる。フランス革命の前後の知識人たちもそうでした。日本でも、80年代のポストモダンみたいに、新奇なアイデアをバンバン出して、得意になっているといったように(笑)。

でも日本の場合は、同じ儒学を修めた人たちが、改革や維新、近代化に動員されるけど、実務家としての身分があるんですよ。三国志を読むと、劉備に諸葛孔明を紹介したのは徐庶といったように、知識人の間のネットワークがある。でも日本の歴史では、そういう議論を商売にする知識人の階層というものはあまりない感じがします。

中国に詳しい人に聞いたことがあるんですが、中国では全人代で最終的な議論が決まるまでけっこう自由闊達な議論をやってるらしいです。百家争鳴でレベルの高い議論をやってるのだそうです。他方、日本の議論は、同じような意見ばかりで、異論を嫌う(笑)。同じアジアで儒教だと言っても、日本とはけっこう違うんですよね。

大場:まさにおっしゃるとおりで、日本だと中野先生が挙げた知識人の代表格は荻生徂徠ですね。

中野:なるほど、徂徠ぐらいですか。

大場:だから、徂徠学派が一世風靡した後に来るのは、一斉反発ですよね。あんな、実務経験もない、死生観もないくせに、大風呂敷ばっかり広げやがってと。だから戦後になって、丸山眞男がインテリゲンチャ、インテリゲンチャと言って徂徠が大好きなのは……。

中野:わかりやすい(笑)。

佐藤:知識人が妙な理想を説いたりせず、黙々と実務をこなすくらいのほうが、社会は安定するんじゃないですかね。あるアニメ映画の台詞にならえば「革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標でやるから、いつも過激なことしかやらない」というやつで。

中野:そうなんですよ。だから、そこがおもしろいところでもある。古川さん、いかが思われますか。

「個」や「組織」の良し悪しを決めるもの

古川:話が戻りますが、施さんが前編でおっしゃった、「個の確立」という言葉についてです。施さんは、これは新自由主義的な意味に誤解されるおそれがあるのではないかと指摘されました。たしかにそのとおりですが、私は逆に、大場さんがあえてこういう表現をされたことの積極的な意味を考えたいと思います。

古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年、三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』(東洋経済新報社、2018年)、共編著に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)

というのは、施さんもよく読めば書いてあるとおっしゃったとおり、大場さんがおっしゃりたいことは、個を確立するためには共同体の支えが必要だという逆説ですよね。安定した共同体があり、個人はその共同体の人間関係の網の目の中に生まれ落ちて、そこで自分のさまざまな立場や役割になりきることで、はじめて強い個として確立される。大場さんがあえて「個の確立」という表現をされたことは、共同体から解放されることによって個が確立できると考えてきた戦後日本の「個」の理念を問い直すきっかけになるという意味で、やはり大事なことではないかと思います。

しかし、個と集団との関係の問題は、けっこう難しいですよね。佐藤さんが前編でおっしゃった「合成の誤謬」の話とも重なりますが、集団の規範に従うことによってこそ個が確立されるのだとしても、では、もしその集団の規範そのものが間違っていたらどうするのか。たとえば、財務省に入ったら財務省の規範に従わなきゃいけないのかという話にもなります。

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