古川:ハーバード大学のマイケル・ピュエットという中国哲学の研究者が、似たようなことを言っていますね。彼は礼の本質は「かのように」であると言っています。実は孔子自身がそう言っているふしがあって、たとえば「祀ること在(いま)すがごとく」せよ、と。祖霊を祀る儀礼というのは、あたかも祖霊がそこにいる「かのように」振る舞うことが大事なのだと言っているんです。
これはほとんどプラグマティズムの考え方で、実際に祖霊がそこにいるかどうかということが問題であるのではない。そうではなく、あたかもそこにいる「かのように」振る舞うことで、家という共同体が作られ、その共同体における自己が作られていくという、社会的な効用こそが礼の本質なのだということです。
これはまさに演技ですよね。しかも、「かのように」振る舞うということは、一方に「本当は違うかもしれない」という冷めた視点をもっていることにもなります。つまり、今ある規範に対して、距離を取ることができるわけです。それが、場合によっては規範そのものを修正していく契機にもなるのではないかと思います。
大場:中国では朱子学が隆盛すると「道学者先生」と呼ばれる四角四面な儒学者が登場しました。日本にも「道学者先生」は現れますが「らしさ」とは違うと見られてしまうんですよね。それで、「らしく」というのが何かって問われると、中国の士大夫が重んじる礼よりも、日常生活での他者との関わり方を、自分自身の責任で作り上げなさいというアンチテーゼが出てきます。
日本人にとっての中国思想と西洋思想の距離感
施:少し話は変わりますが、この本が出たことの意味っていうのを考えてみたいんです。日本の現代知識人って、だいたい西洋思想やアメリカをベースにしているじゃないですか。でも、中国思想をベースにして現代のことを考えるような本が増えると、日本の知識人のスタンスやイメージがけっこう変わるんじゃないかなって思うんですよね。
西洋の思想や流行を身につけているのがインテリっていうと、日本のインテリってすごく薄っぺらいものになりがちですよね。だから、こういう本が出ることによって、日本の知識人の立ち位置や見方が変わってくるといいなと思っています。
中野:それは西洋に失礼ですよ(笑)。
佐藤:どんなに深い思想でも、学び方が表面的なら薄っぺらくなりますので。
施:いや、西洋自体が浅薄だという意味ではもちろんありません。やはり西洋は日本から遠いですし、西洋をベースにしていると日本の知識人は頭でっかちになりがちで、日本の伝統や歴史に対して敵対するようなイメージが強いんですよね。でも、中国思想をベースにして現代日本を論じる形が増えてくると、伝統に対する知識人の関わり方が変わってくる気がします。日本の伝統に対する中国思想の影響は、西洋の影響に比べ、比較的大きく深いですから。
伝統や文化に対して、それと対決するのではなく、ある程度踏まえつつ、現状に合わせて違う方向から批判的に活用するような知のあり方が広まれば、日本のインテリのイメージがマシになるんじゃないかと思います。