差別される者がみずから差別を受け入れている部分もある。たいていの社会には「男性的」と一般に思われている分野(例えば、科学や、工学や、経済学など)があって、多くの聡明な女性が、その分野の才能に恵まれていても、自発的にその分野に進むのを避けている。
1980年代初頭、わたしが通っていた韓国の大学の経済学部には、女子は全学生約360人中6人しかいなかった。工学部に至っては約1200人中わずか11人だった。女子は工学や経済学を専攻できないという決まりはないのに、多くの優秀な女子学生が英文学や心理学といった「女性的」な分野を選んでいた。そのような分野のほうが女子に合っているという社会通念に縛られていたせいだ。
このように、一部の人たちが仕事の能力とはなんら関係のない理由(性別や、宗教や、人種)で、仕事に就くための競争にすら参加できないのだとしたら、その社会における競争の結果は最も生産的なものとも、最も公平なものともいえないだろう。そういえるためには機会の平等が絶対に欠かせない。
全員が同じスタートラインからスタートしても
では、将来の社会では(願わくはあまり遠くない将来)、真の機会の平等が実現されるとしよう。またそこでは、全員が同じルールのもとで競争できるとしよう(現実には不公平なルールがあちこちで幅を利かせている。例えば、米国の大学の「レガシー制度」がそうだ。この制度では、自分の親や祖父母がその大学の出身者であれば優先的に入学できる)。
そういう社会になったら、誰もが同じルールのもとで同じゲームに参加する機会を与えられているのだから、社会にどんな不平等が存在したとしても、それを受け入れるべきだ、といえるだろうか。
残念ながら、そうはいえない。
なぜなら、全員が同じルールのもとで競争する機会を与えられているからといって、競争がほんとうに公平なものであるとは限らないからだ。全員が同じスタートラインからいっせいにスタートしたとしても、その中に片脚の人や、片目の人がいたとしたら、そのレースは公平であるとはいえない。
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