ここから自由市場派は、個人に存分に競争させて、競争の結果を受け入れさせるべきだと主張する。たとえ不平等と批判されるほどの所得差が生じても、気にする必要はない。これが最も生産的で、最も公平な制度なのだ、と。
なぜ最も生産的かといえば、自分の力を最大限に発揮しようという意欲がそれによって最も高まるからであり、なぜ最も公平かといえば、経済への貢献度に応じて報酬が決まるからだ、と。
機会の平等
貢献度に応じて報酬を決めるという原則が正当化されるためには、重要な条件がひとつ満たされなくてはならない。それはすべての人に、望みうる最高の仕事を得るチャンスがあるということ、つまり機会が平等に与えられているということだ。
この条件は些細なものではない。過去には、多くの社会で、人々の教育や職業の選択が身分や、性別や、人種や、宗教を理由に公に制限されていた。
オックスフォード大学とケンブリッジ大学は1871年まで非国教徒(カトリック教徒、ユダヤ教徒、クエーカー教徒など)の入学を認めていなかった。また両大学で女性にも学位が授与されるようになったのは、オックスフォード大学では1920年、ケンブリッジ大学では1948年のことだ。
アパルトヘイト体制下の南アフリカ共和国では、黒人や「カラード」(混血によって生まれた人を指すアパルトヘイトの用語)たちは、資金のきわめて乏しい、学生で溢れかえった非白人向けの大学でしか学ぶことができず、いい仕事に就くことはまず不可能だった。
現在では、そのような公的な差別の大半は廃止されているが、機会の平等を真に実現している国はない。女性は職場で男性と同じ機会を与えられていない。その背景には、女性はたいてい家庭を大事にし、出世を望まないという性差別的な偏見がある。さすがに、女性は劣った性であるという、事実に反した侮辱的な見方はもうないとしてもだ。
教育や、労働市場や、職場での人種差別もいまだにあらゆる多民族社会でまかり通っており、能力では劣りながら多数派の人種出身である者のほうが、能力で優りながら少数派の人種出身である者よりも、多くの機会を与えられている。
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