同じように、現実の世界でも、理論上、努力しだいで自分の欲する仕事に就くチャンスがすべての人に与えられているとしても、その仕事に就くための競争の参加者の中に、最低限必要な能力を欠く人がいたら、その競争は公平とはいえない。
例えば、幼児期の栄養不良のせいで脳の発達が不完全である人がいるかもしれないし、教育予算が足りない貧しい地域で育ったせいで、質の低い教育しか受けられなかった人もいるかもしれない。つまり、社会の成員全員が必要最低限の能力を持っていないかぎり、機会の平等には意味がないということだ。
結果の平等を促進するためには
したがって、人生のレースをほんとうに公平なものにしようとするなら、すべての子どもたちが必要最低限の能力を身につけてからレースに参加できるようにする必要がある。そのためには、すべての子どもたちに十分な栄養や、医療や、教育や、遊びの時間(近年、子どもの成長にとって遊びの時間がとても重要であることが明らかになってきている)が与えられなくてはならない。
そしてそのためには、子どもを育てる者たち(親や、親戚や、養育者)の生活水準にあまりに大きな差があってはならない。
さもなければ、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』か、現在の北朝鮮のように、すべての子どもを共同の施設で育てなくてはならないだろう(聞くところによると、北朝鮮ですら、エリートと庶民とでは違う施設で子どもが教育されているらしい)。いい換えるなら、機会の平等だけでは不十分であり、かなりの結果の平等も必要であるということだ。
結果の平等を促進するには、市場の規制という方法がある。適切な規制を敷くことで、経済的な強者から経済的な弱者を守ることができる。
例えば、スイスや韓国では、小規模の農家や商店を守ることで(前者は農産物の輸入を制限することなどで、後者は大規模な小売り業者の活動を制限することなどで)、所得の不平等の縮小が図られている。不平等の縮小は、金融の規制(ハイリスクの投機を制限するなど)や、労働市場の規制(最低賃金や傷病手当の引き上げなど)でも実現できる。
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