もちろんこの乗務員は、誰もが同じ人間であるのだから、誰もが平等に扱われるべきだというソ連の理念に厳格に従ったまでだ。その理念のもとでは大臣であれ、医者であれ、坑夫であれ、清掃員であれ、すべての人が一律にパンや、砂糖や、ソーセージや、年1足の靴や、そのほかのあらゆるものの配給を受けるべきとされた。特別扱いは許されなかった。
しかし、このような方法で平等や公平を追求することには、大きな問題がある。
ニーズの違う人々を同列に扱う不公平
確かに、人間としての「基本的なニーズ」は誰でも同じだ。わたしたちはみんな、きれいな水や、安全な住居や、栄養のある食べ物を必要とする。この点では、社会主義の原則は、餓死者がいる一方で贅沢三昧の暮らしをする人がいる封建社会や資本主義社会の現実に対して、重要な批判になっている。
しかしそのような基本的なニーズがひとたび満たされたら、わたしたちのニーズは急速に多様化し始める。そこですべての人を同列に扱うのは得策ではない。
多くの社会で主食にされているパンの例で考えてみよう。食料不足の時代(ソ連で農業集団化後に起こった1928~35年の食料不足や、英国で第二次世界大戦後に起こった1946~48年の食料不足など)には、全員に毎日同じ量のパンを配給するのは公平なことのように思える。
しかし、そのパンが酵母を使った白い小麦粉のパンだったら、公平ではなくなる。小麦アレルギーの人や、過越祭の時期のユダヤ人などのように、そのようなパンを食べられない人がいるからだ。
あるいはトイレの例で考えてもいい。公共施設に設置する男性用のトイレと女性用のトイレの数を同じにするのは、公平なことのように思える。男女の人口はおおむね同じなのだから。
しかし現実には、女性のほうがトイレでより多くの時間と空間を必要とするので、これはきわめて不公平といえる。だから映画館や、コンサートホールや、イベント会場で、女性用のトイレに長蛇の列ができてしまうのだ。
つまり、ニーズの違う人々を同列に扱うのは、ベジタリアンに鶏肉を提供するのであれ、小麦アレルギーの人に小麦のパンを提供するのであれ、女性に男性と同じトイレのスペースを提供するのであれ、根本的に不公平であるということだ。
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