関ヶ原での「小早川秀秋の裏切り」に隠された真実 家康から早く裏切るよう催促はあったのか?
家康からの小早川秀秋部隊への「問鉄砲」、それに端を発する小早川の裏切り。これが関ヶ原合戦の見せ場であり、家康ら東軍の勝利の要因とされてきた。
問鉄砲は一次史料には載っていない
しかし、この「問鉄砲」は、二次史料(『黒田家譜』『関原軍記大成』など)にしか記載がなく、信用できる一次史料には載ってはいない。それがいつしか「通説」となり、小説や時代劇にも盛んに取り上げられ「真実」として広まった(注:一次史料とは、対象とされる時代に書かれた史料。二次史料とは、一次史料を参考にして後の時代に編纂・記述した史料のことを指す)。
関ヶ原合戦の2日後の9月17日に徳川家臣の石川康通・彦坂元正が三河にいる松平家乗に書状を送り、関ヶ原合戦の結果を報告している史料(『堀文書』)によると、小早川らは戦いが始まると、すぐに西軍を裏切り、東軍に味方していることが記載されている。
つまり、小早川は躊躇することなく東軍側につき、家康からの「問鉄砲」もなかったということだ。
また小早川は、9月14日に家康と和睦を結んでいたという話(『関原軍記大成』)もあるが、小早川の合戦当日の行動を考えると納得できるだろう。勝負は戦う前から決まっていたのである。
(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』(PHP研究所、2019)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・日本史史料研究会監修『関ヶ原大乱、本当の勝者』(朝日新書、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)
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