関ヶ原での「小早川秀秋の裏切り」に隠された真実 家康から早く裏切るよう催促はあったのか?

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一方で、直政が禁止されている抜け駆けをなぜ行ったかというと「先鋒武将は豊臣系武将が圧倒的であり、徳川系は井伊直政と松平忠吉の率いる2隊しかない。このまま漫然と福島正則を一番手として戦いに入った時、東軍が勝利してもそれは徳川の勝利にはならない。同盟の豊臣系武将たちを利するだけである。この戦いを徳川の戦いとし、東軍の勝利を徳川の勝利とする形を作るために、先陣をとることは不可欠だった」からとする。

しかし、私は後世の史料・編纂物に描かれている井伊の抜け駆けは、やはり直政らの武勇を強調するためだと考える。実際の状況よりは、誇大に描かれたのではないだろうか。

こうして関ヶ原の戦いは、井伊直政・松平忠吉(東軍)が、西軍の宇喜多秀家に攻撃をしかけたことにより、幕を開けた。

戦いの様相は「通説」によると次のようなものである。両軍は一進一退を繰り返していたが、午前10時頃になると、明け方からの霧も晴れてきた。

石田三成(西軍)は、天満山に狼煙をあげ、松尾山にいる小早川秀秋、南宮山にいる毛利秀元の軍勢に参戦を促す。両軍がそれに応じなかったので、三成は使者を遣わしたが、小早川らはこれにも応じなかった。小早川らに東軍からの内応の工作があったからだ。

家康が小早川方に「問鉄砲」を撃つ

ところが、小早川は東軍の要請に対しても、手筈通りに動かなかった。石田三成軍はじめ西軍の諸勢は、頑強に戦い、戦線は膠着していた。

大河ドラマ どうする家康 小早川秀秋
関ヶ原古戦場 小早川秀秋陣地松尾山(写真: kumayosi / PIXTA)

この戦況が、小早川秀秋に出撃を躊躇させた。思わぬ事態に徳川家康(東軍)は苛立ち「せがれめにはかられた」と呟き、右手の指を頻りに噛んでいたという。ちなみに「せがれ」とは小早川秀秋のことである。小早川が西軍を裏切り、出動しないことをなじっているのだ。

小早川部隊の出動がないことに業を煮やした家康は、小早川の部隊に対して、寝がえりを促す「問鉄砲」を撃つ。小早川が陣を置く松尾山に、鉄砲射撃を敢行したのだ。この「脅迫」と「挑発」に若い小早川秀秋は気が動転し、全軍に出撃を命令。小早川部隊は山を下り、大谷吉継(西軍)の部隊に攻撃をしかける。

このとき、かねて、内応の約束をしていた脇坂・朽木・小川・赤座の軍勢も、西軍を裏切り、大谷吉継隊に襲撃を開始。大谷吉継は自刃して果てた。小早川秀秋の裏切りによって、西軍は崩壊、石田三成は伊吹山中に落ち延びていく。

――というのが、関ヶ原合戦の「通説」だ。

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