関ヶ原での「小早川秀秋の裏切り」に隠された真実 家康から早く裏切るよう催促はあったのか?
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は開戦の経緯や、小早川秀秋の裏切りなど、関ヶ原の戦いで起きた数々の謎を解説する。
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慶長5年(1600)9月15日早朝、美濃国(岐阜県)関ヶ原には、徳川家康率いる東軍、石田三成ら西軍、合わせて約15万人が対峙していた。
前の日からの雨の影響で、関ヶ原には霧が深く立ち込めていたという。戦闘は午前8時頃から徳川の重臣・井伊直政(東軍)の抜け駆けにより開戦したと言われている。
井伊直政による抜け駆け
開戦の際に井伊直政は、家康の4男・松平忠吉を伴い、前方に出ようとしていた。しかし本来先陣は、福島正則が担当するはずだったため、福島家の家来・可児才蔵は「先陣は福島家だ。ここは通せない」と直政を制止した。
すると直政は「それはもっともなこと。我らは先陣を仕ろうとはしていない。松平忠吉様のお供にて、偵察を仰せ付けられたのだ。敵は間近。ここを通してほしい」と要求する。才蔵はそれならば仕方ないと直政らを通す。直政はすぐに前方に飛び出し、敵陣に突撃、攻め込むことになった。
――以上が一般的によく知られている開戦の経緯だ。
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