関ヶ原での「小早川秀秋の裏切り」に隠された真実 家康から早く裏切るよう催促はあったのか?

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直政は、宇喜多氏(西軍)の陣に攻撃をしかけたというが、このような抜け駆けは軍法において禁止されている。抜け駆けにより、統率、秩序が乱れ、混乱状態になった末に、戦に敗れることがあるからだ。

直政は「此度の合戦で抜け駆けをしたこと、諸将は立腹しておりましょうか」と後に家康に尋ねたという。

すると家康は「直政のこのような行いは、今に始まったことではないわ」と上機嫌で述べたとされる(『寛政重修諸家譜』)。

ちなみに、井伊直政が伴っていた松平忠吉は、家康の4男として生まれたが、松平家忠の養子となっていた。実は、忠吉と井伊直政は縁戚にあり、直政の娘を忠吉は正室としていた。そのことを考えると、直政は、家康の息子であり、自身の婿でもある忠吉に何とか先陣を遂げさせ、初陣を飾らせようとしたのだろう。

こうした開戦の経緯は、松平家忠の孫(忠冬)が編纂した『家忠日記増補追加』にも記されているが、そこにも、直政は「斥候のため」と偽り、忠吉と敵陣に攻め込んだとある。

戦の経緯は、実際にはありえる話なのか

このように数々の史料に描かれている開戦の経緯だが、実際にはありえる話なのだろうか。

前述したように、合戦当日は霧深く、視界が良好ではなかった。よって、霧に紛れて、馬で突撃を行い、敵兵を槍で倒し、すぐに帰還することも不可能ではなかったと思われる。

とは言え、何度も繰り返すように、抜け駆けは軍法違反である。そうした行為を徳川の重臣・井伊直政がするのだろうか。

そのことを考えると、直政は福島正則を騙して、敵陣に斬り込んだのではなく、あらかじめ正則に「先陣を譲ってほしい」と相談し、了解を得たうえで、実行したことも推定できる。直政自身も軍法で抜け駆けを禁じており、本人が自ら禁を破ることは考えづらい。

これはあくまで私の考えであるが、一方で「井伊の抜け駆け」を真実と捉える研究者もいる。

福島正則は、井伊の抜け駆けを知っていたが、あえて、これを咎めようとしなかったという。武士の情け、徳川に恩を売ったなどと正則の心中が推測されている。

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