北条氏政が秀吉臣従より「滅亡の道を選んだ」背景 なぜ頑なに従わなかったのか?歴史をひもとく

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それにしても、北条氏はなぜこれほど頑ななのか。それを理解するには、北条氏のヒストリーを振り返る必要がある。

小田原北条氏の初代は北条早雲だが、自身で「北条」を称したことはない。「伊勢宗瑞」が正式な名で、息子で2代目の氏綱のときに「伊勢」から「北条」へと名字が改められる。

3代目の氏康のときに、関東に安定した支配の礎を築けたのは、きちんと初代からの理念が継承されたからだろう。

「21カ条の戒め」を掲げた初代の早雲

早雲は63歳で病死するまで領土拡大に挑み続けた一方で、21カ条の戒めを掲げている。戒めは、第一条の「仏神を信じなさい」から始まり、早寝早起きや読書、礼儀や慎み深くあること、素直さの大切さが説かれ、質素でいることや身だしなみをきちんとすることなど「人としてかくあるべし」という真っ当な項目が並んでいる。

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北条早雲公像(写真: 伯耆守 / PIXTA)

早雲が病死すると、2代目の氏綱が32歳で当主となる。前述したように姓を「北条」に改め、本拠は小田原へと移した。早雲の領国経営の方針を引き継ぎながら、関東に地盤をしっかり築いている。

氏綱は病に襲われて、54歳で命を落とす。予感があったのか、死の数日前に出家。まだ26歳と若い後継ぎの氏康のことを心配して、次のような主旨の5カ条を残している。

「一、大将によらず、諸将までも義を専らに守るべし。 義に違いては、たとえ一国二国を切り取っても、後に恥辱を受けるであろう」

「一、侍から百姓に至るまで、すべての人が不便なきようにすること。捨ててもよいような人はいない」

「一、侍は矯らずへつらわず、その身の分限を守るのをよしとする」

「一、万事倹約を守るべし」

「一、勝ってかぶとの緒を締めよ、という古語を忘れ給うべからず」

初代・早雲の理念をしっかり受け継いでいることがわかる遺訓だ。義を重んじた氏綱は、次のような言葉も残している。

「義を守りての滅亡と、義を捨てての栄華とは天地格別である」

勝つことがすべてとされる戦国時代において「義がなければ栄華を誇ってもしかたがなく、義を守っての滅亡のほうがよい」とは、なかなか言えることではないだろう。

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