北条氏政が秀吉臣従より「滅亡の道を選んだ」背景 なぜ頑なに従わなかったのか?歴史をひもとく

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秀吉側と北条側の緊張関係を解消すべく、家康は積極的に働きかけている。だが、「秀吉に臣従するように」という家康の呼びかけも、北条氏にはなかなか響かない。

それどころか、天正15(1587)年からは秀吉との合戦に備えて、小田原城の大規模改修へと乗り出している。9キロにも及ぶ総構(そうがまえ)を構築し、城のほか城下町一帯も含めて、周りを堀や石垣、土塁で囲い込んでしまった。

『徳川実紀』は「田舎者」と辛辣な表現

さすがに完全に無視するのはまずい思ったのか、翌年の天正16(1588)年2月には、家康の要望を受けて、北条側は家老を上洛させて、豊臣側と交渉を行っている。だが、話はまとまらなかった。北条側が「納得する条件ならば、臣従してもよい」というスタンスを崩さなかったために、決裂している。

強大な秀吉を相手に渡り合おうしたのは、小田原城の守りに自信があったからだろう。なにしろ、小田原城はもともと落とすのが難しいことで知られており、武田信玄や上杉謙信も攻略できなかった。さらに小田原城を改修したことで、秀吉に攻められても、すぐには落ちないという過信につながったようだ。

そんな強気な姿勢を維持する北条氏に、それまで絶妙なバランスをとっていた家康も、態度を変えていく。江戸幕府の公式史書『徳川実紀』での記述は、家康の胸中に近いものだったのではないだろうか。

「氏直は、今や家康の姫君と結婚し、親しい仲であったため、君もさまざまに準備して、上洛を勧められたが、氏直の父である氏政は『私たち北条は代々関東を統治しており、一族の人数も多く家は富み豊かであるから、世の中には怖いものなどない』とばかり思っている田舎者であったため、人の忠告を取り入れなかった」

天正16(1588)年4月には、14日から5日間にわたって、後陽成天皇の聚楽第行幸が執り行われ、家康も上洛。行幸の2日目に秀吉は、東海より西の諸大名に対して「関白秀吉の命には、どんなことでも従う」という起請文を上げさせている。

こうして秀吉の支配が進めば進むほど、「従わない北条に対しては、強硬な態度をとるべきではないか」というムードが、豊臣方でどんどん高まっていく。

そんな様子を見かねて、家康は同年5月に、北条氏政と氏直の父子に、決意を込めた起請文を送ることになる。

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