北条氏政が秀吉臣従より「滅亡の道を選んだ」背景 なぜ頑なに従わなかったのか?歴史をひもとく

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後を継いだ氏康は、そんな父の「侍から農民にいたるまで、すべてに慈しむこと」を実践して、減税政策を実施。畑地に課せられる「諸公事」をすべて廃止した。

一方で、畑地の貫高に応じて相当の懸銭を負担させている。懸銭とは、畑の貫高、つまり収穫高の6%に相当する税金のこと。

これまでは、代官が自由に領民に税金をかけて自分の懐に入れてきた。そんな理不尽なシステムを改革したのである。結果的には、領民の負担を減らしながらも税収は上がり、財政を立て直すことに成功した。

また、領民同士でトラブルになったときのために、「評定衆」という評定制度を創設。訴えが起きると、その相手から事情聴取した。証拠や証文などを提出させて、場合によっては尋問も行いながら、評定会議にかけるという司法制度を整備している。

「関東の覇者」として勢力を拡大しながら、内政の地盤をしっかりと固めた氏康。継承をスムーズにするためだろう、44歳と早めに家督を息子の氏政に譲っている。

氏直と氏政で北条領国の最大版図を築く

氏康の死によって、氏政が単独政権を築いたのは、33歳のときのことである。家督継承から実に12年の月日が経っており、準備は万全である。

引き継ぎ期間で父とともに、有力大名としのぎを削った氏政。1人になっても、その手腕を発揮した。外交面では、状況が二転三転する展開のなかで、父が結んだ上杉との越相同盟を破棄。武田との甲相同盟の復活という大転換を図って、関東での存在感を強めていった。

武田家が滅び、織田家のもとにつくことが決まると、氏政はまだ42歳だったにもかかわらず、家督を息子の氏直に継承した。氏直は信長の娘婿でもあったため、従属を示すためだろう。実権はその後も氏政が握っている。

そして氏直と氏政という2頭体制のもと、上野・信濃・甲斐へと進出。北条領国の最大版図が形成されることになる。

子の氏直とともに全盛期を築いた氏政だったが、名君とされた父の氏康とは対照的に評価が低いのは、ひとえに、秀吉への対応を誤ったとされているからだろう。

いつまでも恭順の意を示すことなく上洛しない北条氏政と氏直の親子に対して、家康は次のような趣旨の書状を送った。

「この家康は、北条父子のことを秀吉に悪く言わないこと、北条氏の領国を所望しないことを誓う。その代わりに、氏政らが今月中に上洛することを勧める。もし、上洛を拒否するならば、氏直に嫁がせた督姫を離縁してほしい」

そんな家康の覚悟の書状もあって、北条側もようやく秀吉の上洛に応える動きを見せる。だが、その後もゴタゴタは続く。

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