「兵庫のタイガース優勝」を大阪人が喜ぶ複雑背景 大阪の御堂筋パレードめぐる曰く言いがたい事情

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プロ野球草創期の関西では、兵庫県に阪神、阪急という電鉄会社が運営する2球団があっただけで、大阪府にはプロ野球チームはなかった。それもあってか阪神は、本拠地が兵庫県なのに「大阪タイガース」を名乗る。

しかしながらプロ野球初年度の1936年、タイガースは甲子園、宝塚と兵庫県の球場で試合をしたが1試合も大阪府で試合をしていない。

兵庫県なのに「大阪タイガース」を名乗れた事情

それでも「大阪」を名乗ることができたのは、当時の関西の都市事情による。昭和初期、大阪の経済発展とともに、船場、ミナミなどの大店の「旦那衆」は、大阪中心部の雑踏を離れて、兵庫県の芦屋、西宮などに広壮な邸宅を構えるようになった。船場などの店舗周辺には奉公人=社員が住み、旦那衆は兵庫県のお屋敷から通うようになったのだ。つまりこの時期、大阪の富裕層が大挙して兵庫県に移住したのだ。

文豪谷崎潤一郎の代表作「細雪(ささめゆき)」はまさにプロ野球が創設された1936年頃の芦屋を舞台にした船場の大家の4姉妹の物語だが、こういう形で芦屋、西宮などは大阪のヒンターランド(後背地)になっていった。西宮市の甲子園に本拠を構える球団が「大阪タイガース」を名乗っても違和感はそれほどなかったのだ。

こうした大阪の富裕層の「兵庫県移住」を推進したのは、沿線の宅地開発を推進した阪急電鉄だったが、阪急軍よりもタイガースのほうが人気があった。阪急は1938年に大阪府南部を走る南海電鉄に声をかけてプロ野球参入を促した。これは「ほんまもんの大阪の球団」を作ることでライバルのタイガースを牽制する意味があったのかもしれない。

しかし戦前のプロ野球では巨人とタイガース以外は年度優勝することがなかった。関西のチームと言えば兵庫県が本拠の大阪タイガースという時代が続いたのだ。

1949年、「2リーグ分立騒動」が起こる。プロ野球の父、正力松太郎がMLBにならって「2リーグ分立」を提唱したのだ。

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