また、この鳥取城攻めのときには、秀吉の妻おね(後の北政所)の叔父にあたる杉原家次が出口を封鎖。さらに、妻の妹の夫にあたる浅野長吉が、水路からの物販搬入を阻む役割を担っている。秀吉が「戦わずに勝つ」兵糧攻めに自身の活路を見出していくにあたって、信頼できる身内の人材を積極的に登用していたことがわかる。
信長の死後、秀吉がライバルの柴田勝家と対決した天正11(1583)年の「賤ヶ岳の戦い」にも、秀長は参陣。その軍功によって美濃守に任官すると、播磨と但馬の2カ国が与えられて、姫路城を居城にした。
さらに、家康と対峙した天正12(1584)年の「小牧・長久手の戦い」では、戦場以外でも存在感を発揮した。甥の秀次が局地戦で敗れたことから、秀吉が激怒すると、秀長が間に入って秀吉をなだめている。おかげで秀次は大きな咎めを受けずに済んだという。「チーム秀吉」において、秀長は緩衝材のような役割も果たしていたようだ。
天正13(1585)年の四国征伐にあたっては、病で出陣できなくなった秀吉の代わりに、10万以上の軍勢を率いる総大将となった秀長。心配した秀吉からの援軍を断りながら、長宗我部元親をしっかり降伏させたことで、その信頼度はさらに高まったようだ。
日本の統治を秀長に譲ろうとしていた
『イエズス会日本年報』によると、天正14(1586)年3月16日、大阪城を訪ねた宣教師のガスパール・コエリョらに、秀吉はこんな夢を語ったという。
「日本を統治することが実現したら、日本を弟の秀長に譲り、私は朝鮮と支那を征服することに専念したい」
ところが、大久保忠教が著した『三河物語』によると、秀吉がそれほど重用した秀長が、家康の上洛をきっかけに、命を落としたという。一体、何があったのか。秀吉側は家康の上洛を喜びながらも、いきなり気が変わったらしい。
「家康を危険だとお思いになったか、その後、毒を飲まそうと、ごちそうのなかに毒を入れた」(『三河物語』)
ずいぶんと大胆かつ、杜撰な計画だが、これが失敗して、とんでもない事態を招くことになったという。
「大和大納言とならんでおいでになったが、上座においでになったのを、ご運が強かったので、ご膳のでるとき、遠慮をなさり大和大納言の下座にまわった。家康の飲むはずだった毒を、大和大納言が飲んで、死にはてなさった」(『三河物語』)
「大和大納言」とは、豊臣秀長のことである。ごちそうに毒を仕込んでおいたものの、家康が遠慮して秀長の下座に回ったことで、秀長のほうが毒を飲んで死亡したのだという。
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