「秀吉が天下を託そうとした」ある男の意外な実力 日本の統治を弟の秀長に譲ろうとしていた

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急速に勢力を拡大したのは「長い物には巻かれろ」とばかりに「秀吉」という勝ち馬にみなが乗りたがったからにほかならない。そのことは本人がいちばんよくわかっているだけに、なかなか自分に従わないガンコな家康のほうが、かえって信用できたのではないか。

「弱音をこぼす」というアプローチで、家康を味方にしようとしたのは、いかにも「人たらし」とされた秀吉らしい。

目まぐるしく状況が変わった秀吉にとって、これまでのように変わらずに信用できるのは、やはり身内だ。秀吉は弟の秀長を重用している。

諸説があるが、秀吉は1536(天文5)年に尾張中村の農家に生まれたとされている。父の木下弥右衛門は、織田信長の父、織田信秀に仕える足軽だったが、戦で傷を負ったことで、農民として暮らすこととなったという。

そんな弥右衛門のところに嫁いだのが、大政所(おおまんどころ)で、秀吉とその姉を生んでいる。秀吉が8歳のときに、弥右衛門が病死。大政所は幼い秀吉を連れて、筑阿弥(竹阿弥)と再婚し、秀長と朝日姫が誕生することとなった。

秀吉にとって、秀長は異父弟ということになる。しかし、近年は秀長の生年と秀吉の実父の没年から、父も同じだったのではないかとも言われており、定かではない。

兄の出世で人生が変わった豊臣秀長

秀吉が思わぬ大出世を遂げたことで、妹の朝日姫はその運命が大きく変わったことはすでに書いたが(過去記事「離婚させられ家康の妻に」秀吉の妹の悲惨な末路参照)、弟の秀長もまた人生が激変する。兄の秀吉が信長に任官すると、自身も信長に仕えて武士としての道を歩みだした。

天正元(1573)年、浅井氏の滅亡によって、信長からその労を認められて、秀吉は長浜城を築城。初めて一国一城の主となると、秀吉は弟の秀長を城代として内政を任せている。その手腕に期待していたのだろう。

どうする家康
秀長が城代を任された長浜城(写真: Yama / PIXTA)

翌年の天正2(1574)年に長島一向一揆が起きると、秀長は秀吉の代理として参戦。丹羽長秀や前田利家らとともに先陣を切って、初めて武功を挙げた。

天正9(1581)年、毛利家に仕えた吉川経家が籠もる鳥取城に、秀吉が兵糧攻めを行ったときにも、秀長は活躍している。鳥取城を包囲する陣城の一つに入って指揮をとり、勝利に貢献した。

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