「家康を裏切り、秀吉につく」石川数正の複雑な心 長年仕えた重臣の衝撃行動、徳川家の反応は?

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秀吉方と交渉していた数正は、秀吉が日々勢いを増していく様子を肌身に感じていたに違いない。だからこそ、秀吉と全面対決することの難しさを説き続けていたのだろう。

だが、数正の願いも虚しく、徳川から新たな人質は出さないことが決定された(1585年10月28日)。家康が諸将を浜松城に集めて、下した結論であった。強硬論が幅をきかせ、数正の意見は採用されなかったと言えるだろう。

数正は徳川家中で孤立していたと思われる。何より、自らの融和路線が採用されなかったということは、今後の数正の出世にも影響してくる。孤立し排斥され、自身の立場が危うくなる可能性が高い。いや、生命まで絶たれることもありうる。

家康に衝撃を与えた数正の裏切り

同年11月13日、岡崎城の城代を務めていた数正は、突如、妻子とともに出奔。豊臣秀吉のもとに身を寄せるのである。その背景には、これまで述べてきたような事情があったと考えられる。幼い頃から仕えてきた忠臣・数正の「裏切り」は、家康にとって、衝撃でもあり、打撃でもあった。

数正出奔の翌日(11月14日)には、家康は岡崎城に宿老の酒井忠次を入れている。家康も同月16日には、岡崎に赴いた。翌月には、本多重次が新・岡崎城代に任命された。

一方、秀吉のもとに奔った数正は、秀吉から一字を与えられ「吉輝」を名乗る。数正が徳川家に戻ることは二度となかった。秀吉に臣従した数正は、後の小田原攻めの功により、信濃国松本城を与えられる。そして、文禄元年(1592)に没するのであった。

さて秀吉は、徳川方からの人質差し出しの拒否を受けて、家康征伐のため、来春にも出陣する意向を示していた。家康も三河東部城(愛知県幸田町)や岡崎城の普請(建築工事)を行うなど、秀吉軍の襲来に備えることになる。家康と秀吉の対立は、どのような結末を辿るのであろうか。

石川数正の「裏切り」は、『三河物語』の著者・大久保彦左衛門忠教や大久保一族にも衝撃を与えたようで、同書には次のような逸話が記されている。

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