「家康を裏切り、秀吉につく」石川数正の複雑な心 長年仕えた重臣の衝撃行動、徳川家の反応は?

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数正は、家康がまだ幼名・竹千代を名乗っていた頃から、つまり、駿河今川氏の人質時代から、家康に側近く仕えていた武将であった。

桶狭間の戦い(1560年)後、家康は今川氏から離反。家康の妻(築山殿)と子(竹千代、後の松平信康)は今川氏の人質となり、その奪還に貢献したのも数正だった。

「家康の嫡男を殺せ」との声が今川家中で巻き起こるなか、数正は「幼い若君1人を殺させる場合、お供する者もいないだろう。それは、人目にも寂しく映る。我らが参り、最期のお供をしよう」と言うと、率先して駿河に下ったという(『三河物語』)。この数正の発言に、身分の高下を問わず、感動する者が続出したと言われる。

数正は武将としても一流だった

そのような中で、徳川方の捕虜となっていた鵜殿氏と、家康の妻子を交換しようとの話が持ち上がる。この人質交換は無事に成功し、数正も築山殿や信康と共に岡崎に戻る。この時、数正は「八の字の髭をピンとそらし、若君を自分の鞍の前に乗せて」行進したという。『三河物語』は、数正の態度を「見事」と評している。

数正は、戦において殿(しんがり:自軍が退却するとき、最後尾で敵の追撃を防ぐ役割)を命じられ、追走してくる敵軍(武田勝頼軍)を逆に襲撃、見事勝利したこともあった(1577年)。勇気ある行動だけではなく、武将としても一流だったのだ。

その数正が、さらに人質を秀吉に差し出すべきだ、と徳川家中で主張した(数正は、秀吉との交渉役だった)。

ちなみに、数正は自身の息子(嫡子の康長、次男の康勝)を於義伊(家康次男)と共に大坂へ人質に出しており、ほかの宿老だけに犠牲を負わせようとしているわけではなかった。

数正の心情は、さらなる人質を出すなどして秀吉に臣従の意を示さなければ、いずれ、秀吉は本格的、かつ大規模に徳川方に攻勢をかけてくる。局所では徳川方が勝利することもあるかもしれないが、長期戦にでもなれば、最終的には徳川方は敗れる。そうなれば、最悪の場合、主君(家康)は切腹、御家は瓦解してしまう、というものだったのではないか。そのような想いから、人質を出すことを主張していたと感じる。 

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