読書は価値観を身につけるためのもの──それはつまり、読書を通して、自分はどんな価値観の人間であるのか、どういう価値観をもった人間になりたいのか、を考えられるということです。
もちろん、私は読書にそのような側面があることを否定しません。たしかに私も読書を通して、自分の好きな作家の価値観が、そのまま自分の価値観になっている、というような経験をしてきました。とくに10代のうちの読書は、そのまま自分の価値観に影響を与えやすい。好きな作家の言っていることを、そのまままねして語りたくなる、というような側面もあるでしょう。
現在の日本の国語教育は「道徳」を教える科目
しかし一方で、ここで示されている「価値観」は明らかに「善き価値観」のことであるのも、たしかでしょう。善き価値観とは、社会的倫理規範をちゃんと理解していて、他人を思いやれる道徳的な人間になるということ。つまり読書によって、道徳的な、この社会で善とされる価値観を学んでほしい。そして道徳的な価値観をもった人間になってほしい。──そんな思想が透けて見えることも確かなのです。
このような文部科学省や読書感想文コンクールの「読書」思想を見る限り、やはり読書感想文という文化は、「子どもたちに、読書を通して『(道徳的な)価値観』を身につけ、そして『豊かな人間性』を育んでいることを表現してもらう」ための国語教育文化にほかならない。そんな印象を受けます。
だからこそ、本連載が語ってきた「先生に褒められそうな読書感想文」を書くためには、つねに「自分の話」を入れよ、と述べてきたのです。本の話に終始するのではなく、本を読んだ自分の変化を書くこと。それはつまり、「豊かな人間性」を育んでいる証しだからです。
国語教育について詳しい石原千秋さんは、現在の国語の教科書が「道徳を内面化させるための教材」になっていることを批判しました(石原千秋『国語教科書の思想』筑摩書房、2005)。
「現在の日本の国語教育はあまりにも『教訓』を読み取る方向に傾きすぎている」、それはなぜかといえば、国語が「道徳」を教える科目になっているからだ、と石原さんは述べます。
詳しい議論は石原さんの著作に譲りますが、このような思想を、読書感想文という教材もまた反映しているのでしょう。私たちは、読書を通して、道徳的な人間になることができる──そのような無邪気な姿勢こそが「読書感想文」で求められている正解なのです。
しかし、「先生に褒められる読書感想文」だけ書いていても、面白くありませんね。
次回は、「先生に褒められないけれど、書いていて楽しい読書感想文」の書き方についてお伝えしましょう。
学校に求められている姿勢を理解したうえで、しかしそこに抗ってゆくこともまた、子どものうちにやっておくべき「豊かな人間性を育む」ための行為なのかもしれない、ので。
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