まさにこの本の中で綴られている内容を象徴するかのような書名ですが、その中でフランクルは、次のように語っています。
「経験からすると、収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。一見どうにもならない極限状態でも、やはりそういったことはあったのだ。(中略)人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例があったということを証明するには充分だ。」
「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。」
「人生は自身の振る舞いで決まる」
私たちは、人生が思い通りになる、ならないで一喜一憂します。まるで人生の主人は自分であり、人生という従者は自分の思い通りになるのが当たり前であるかのように。
しかし、フランクルはそうした考えを真っ向から否定します。それはあなたの勘違いだと。あなたの人生というのは、あなたがどう振る舞うかによって決まるのであり、まず問われるべきなのはあなた自身の姿勢なのだと。だから、問いの順番が逆なのだと。
ここでフランクルが言っている「コペルニクス的転回」というのは、地動説を唱えた天文学者ニコラウス・コペルニクスに因んで、「近代哲学の祖」イマヌエル・カントが自らの発想に対して名付けたものです。
カントは、『純粋理性批判』に代表される批判哲学において、まず外部の対象があり、それを人間が認識するという従来の認識論を180度逆転させ、初めに人間の認識能力があり、それが現象を構成するのだと考えました。
私たちは現象を認識することはできても、それは私たちの認識能力(主観)に依るものだから、現象の向こう側にある物の本質、つまり「物自体」は直接認識できないというのです。
ここから、「発想を180度逆転させる」ことを広く「コペルニクス的転回」と呼ぶようになりました。
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